2024.11.3


「あなたがたは大きな罪を犯した 

                   出エジプト32:1535


 山の上で主から民の裏切りを聞いた時は冷静なモーセでしたが、実際に見た時に驚きます(「聞くと見るでは大違い」!)。山から下りて来たモーセは、罪を犯した民を裁きますが、彼らの赦しを主に願います。

 モーセの手には「二枚の証の板」があり、「文字は神の文字で板に彫られていた」(→映画『十戒』)のです。それなのに「子牛の像と踊りが目に入った」時、「モーセの怒りは燃え…板を…打ち砕いた」上で、「子牛を取って火で焼き…水の上にまき…人々に飲ませ」ます。「腹の中に入ってやがて排泄物として出てくるのを見て、彼らは恥じるであろう。」(カルヴァン)

 モーセは先ずアロンの罪を問いますが、彼は「金を…火に投げ入れたら…子牛が出て来たのです」と言い逃れます。民の罪については、「敵対する者の嘲りの的になった」ことを問題にし(→マタイ5章「地の塩、世の光」)、「主に付く者たち」を招くとレビ人たちが集まります。彼らは「モーセの言葉どおりに行い…民のうち三千人が倒れた」という結果になります。

 モーセは民に「あなたがたは大きな罪を犯した」とはっきり断罪した上で、それでも「もしかすると…罪のために贖いをすることが出来るかもしれない」(→「あなたを大いなる国民とする」)と言い、主の前に出ます。「この民は大きな罪を犯しました…今もし彼らの罪をお赦しくださるのであれば…それがかなわないなら…書から私を消し去ってください」と必死で訴えます(→ローマ9章「同胞のためなら」→ルカ23章「彼らをお赦しください」)。主は「しかし今、私があなたに告げた所に民を導きなさい」と言われます。

 民の罪は、何よりも主の心を傷つけたことでした(→ルカ15章「放蕩息子」)。モーセはそういう主の心の痛みを知った上で、赦しを求めるのです。罪赦された者は「主よ、終わりまで仕えまつらん」(讃338番)と歌います。

 






2024.11.10

あなたが私たちと共に歩んでくださる 

                   出エジプト3317


 モーセの執り成しは成功したように見えましたが、主は「裁きの日に、私は彼らの罪を罰する」と言われます(執行猶予判決!)。モーセは、主がイスラエルの民と共に歩んでくださることを求め、主はそれを聞かれます。

 主は「乳と蜜の流れる(約束の)地に上りなさい」と言いつつも、「しかし私は、あなたの間にいて一緒に上ることはない」と冷たいのです(夫婦げんか)。その原因となった金の子牛のことで、「今すぐ、あなたの飾りを体から外しなさい」と命じられます(トラウマ!)。主ご自身が「一緒に上っていくと…あなたを滅ぼしてしまいかねない」と不安なのです。

 幸いモーセと主との関係は良好なので、「モーセは天幕を取って、それを宿営の外の…離れた所に張り…会見の幕屋と名付け」て、そこで主と語ります。「外に移されるのは、神と民との関係が離婚のようになったしるしである。」(カルヴァン→むしろ「別居」)。「主は、人がその友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られ」ます(和解の仲介者!)。

 仲介者として主と交渉するに当ってモーセは、主が「私はあなたを名指しで選んだ。あなたは私の目に適う」と言われたとして(言質を取って!)、「私にあなたの道をお示しください…ご覧ください、この国民はあなたの民なのです」と迫ります。主は根負けしたように「私自身が共に歩み、あなたに安息を与える」と約束されます。モーセはさらに「私とあなたの民がなたの目に適っていることは…あなたが私たちと共に歩んでくださること」以外には知られないと念を押すのです(愛の勝利!)。

 こうしてモーセの執り成しは成功しますが、やがて究極の執り成し手として、主イエスが来られます(→マルコ1章「あなたは…私の心に適う者」)。今の私たちは「飼い主我が主よ」(讃354番)と歌って、喜ぶのです

 







2024.11.17

あなたの栄光を私にお示しください 

         出エジプト331834:35


 これまでモーセは、主と苦労を共にして来て心の友のようでしたが、「金の子牛」事件はその関係を疑わしくしました。彼は神の栄光を見せて欲しいと願いますが、主は彼を山の上に招いて、改めて十戒の板を与えられます。  

 モーセの願いは「あなたの栄光を私に…」と直接的ですが、主は「あなたは私の後ろを見るが、私の顔を目にすることはない」と言われ、「前のような二枚の石の板」を準備してシナイ山に登らせられます。「岩の裂け目」の中で、モーセは主が「主、主、憐れみ深く、恵みに満ちた神…背きと罪とを赦す方」と宣言される声を聞きます。「神はその顔によってよりも、その声によってもっと良く知ることが出来る。」(カルヴァン) こうしてモーセは主の「ありのままの姿」を見たのです(→『アナと雪の女王』)

 心から納得できて「モーセは…地にひざまずき」主を礼拝します。主は改めて十戒とその注意点とを告げられ、「私今日あなたに命じることを守りなさい」と命じられます。「モーセは…四十日四十夜主と共にいて…板の上に契約の言葉、十の言葉(十戒)を書き記し」ます(偶像化しない!)。

 「二枚の証の板を手にした」モーセがシナイ山から下りて来ますが、彼は「主と語るうちに…顔の肌が(→ラテン語訳「角」)を帯びていたこと」に気が付かないほどに喜びに輝いていました(→ミケランジェロ『モーセ像』)。人々がモーセの顔の光を恐れて近づかないので、「語り終えると、顔に覆いを掛けた」とユーモラスな話になっています(→Ⅱコリント3章「やがて消え去るもの(OTの最後」→パウロの予言的解釈)。

 モーセは主の栄光の姿を目で見たいと願いましたが、主は別の方法で示されます。やがて神の御子が「父の独り子としての栄光」(ヨハネ1章)に満ちて地上に来られます。「恵みの光」(讃87番)を賛美する者は幸いです。










2024.11.24

主の栄光が幕屋に満ちた 

         出エジプト3540:3


 主との関係が正常化したので、以前に約束されていた幕屋の建設が始まります(→25~31章)。宿営の中心に(→33章「会見の幕屋」とは別)、モーセは主に命じられて幕屋の建設に着手し、それが完成して祝うのです。

 「安息日には火をたいてはならない」と改めて注意した上で(→31章)、主は幕屋建設のための資材を集めさせられます。「心を動かされた人々は…主への献納物を携えて来」ただけでなく、「心に知恵のある女たちは皆その手で紡(つむ)などして(バザー!)、「男も女も心から進んでそれらを携えて来た」のです(→マルコ12章「やもめのレプトン銀貨」)。

 技術者も必要ですが、主は「ユダの部族の…ベツァルエル」に「知恵と英知と知識とあらゆる巧みな技を授け」られますさらに主は「彼の心に人を教える力を授け」て「ダンの部族の…オホリアブ」も協力者になり、皆が力を合わせて幕屋を造ります(Ⅰコリント12章「体の各部分の働き」)。

 こうしてすべての部分が完成したので、エジプトから出てから数えて「第二年の第一の月の一日に、幕屋が建てられ」ます(→聖書大辞典「幕屋の配置図」→大阪四天王寺の建物の配置)。そして「主がモーセに命じられたとおりであった」と七回も繰り返されます(完全数!)。最後に「モーセはその仕事を終えた」とあり、その時に「会見の幕屋を雲が覆い、主の栄光が幕屋に満ちた」ことによって、主の臨在が示されます。「民はこのようして、幕屋が神の住まいとして選ばれ、そこから主が民の導き手と守り手となられることを、はっきりと知ったのである。」(カルヴァン)

 これまでのモーセの苦労が報いられて、今や主はイスラエルの民と共におられます(→マタイ28章「私は世の終わりまで…共にいる」)。「栄に満ちたる神の都」194番)と歌いつつ、いつもそこに住む者は幸いです。