2021.7.4



この過越の食事をしようと…」

         ルカ221420



  主イエスは「最後の晩餐」の時に、今も私たちが教会で執り行っている「聖餐」を制定されます(パンとワイン!)。主はそのようにして私たちとのきずな(絆)を強くすることを願われます。

「時間になった」(→木曜日の日没)ので、主は「使徒たち」(ルカだけ!)と共に席につかれます(ローマ式に横になって!)。主は「苦しみ(十字架)を受ける前に、あなたがたとこの過越の食事をしようと、切に望んでいた」と言われます(文字通りの「最後の晩餐

「神の国で過越が成就する時までは…二度とこの過越の食事をすることはない」と言われるのは、主が過越の子羊として死ぬことによって旧約時代を終わらせるという覚悟の表明です。「杯を取り…互に分けて飲め」と言いつつ、「神の国が来るまでは…いっさい飲まない」と、再臨の時を待ち望む姿勢を示されます(→14章「盛大な晩餐会」)。

食事の終わり頃、パンを取って弟子たちに分けながら、「これは…わたしのからだである」と言われ、次にワインの杯を取って、「この杯は…わたしの血で立てられる新しい契約(新約)である」と言って、聖餐を制定されます(→聖餐の式文→Ⅰコリント11章)。「聖晩餐は…家庭の良き父が家の者たちを養い、食事をとらせようと心を労するように…神が望んでおられることの証拠であります。」(カルヴァン「ジュネーヴ教会信仰問答」第323問)主はそういう補助手段を与えることによって、「同じ釜の飯を食う仲間」として、私たちとの絆を強くしようとされるのです。

 この時の「過越の食事」にはイスカリオテのユダも加わることを許されています(罪人を招く主!)。この主に招かれて、「わが主のみ前に喜び集い…互いに助け」(讃537番)合う教会でありたいものです。









2021.711


給仕をする者のように…」

        ルカ2221―34


「最後の晩餐」が終りに近づいて、二階座敷から去る前の短い時の事です。主イエスはこれから起こることを見越した上で、弟子たちが動揺せずに、主ご自身が生きられた姿を見習って欲しい、と言われます。

主は「されど視よ(文語訳)と言われ、「わたしを裏切る者(ユダ)が…食卓に手を置いている」と、耐えがたい苦しみを訴えられます(→詩41篇「ダビデの苦しみ」)。それと同時に「その人はわざわいである」とユダのためにも嘆かれます(→マルコ14章「生まれなかった方が…」)。裏切る者について「弟子たちは…互に論じ」ますが、誰も気が付きません。

 この時、「だれが一番偉いだろう」という争論が再燃します(→9:46)。主は「異邦の王たちは…君臨し…」と現実を語りつつ、信仰者は「指導する人は仕える者のように…」と教えられます。「キリストは牧師たちを、支配する者ではなく奉仕する者として任命しておられる。」(カルヴァン)そうすれば「一緒に最後まで忍んでくれた人たち」として、「わたしの国で食卓について飲み食いさせよう」と約束されます(→22:18)。

  主は「シモン…」とペテロに元の名前で呼びかけ、「サタンはあなたがた(弟子たち)を麦のようにふるいにかける」(実と藁を風で吹き分ける)時が来るが、「あなたの信仰がなくならないように…祈った」と励まされます(選手会長!)。素直でないペテロは「死に至るまでも…」と頑張りますが、主は「三度わたしを知らないと言う」と予告されます。祈って待つことが大切なのです(「好漢惜しむらくは兵法を知らず」!)。

  主ご自身が「給仕をする者」のようにして弟子たちの足を洗い、「互いに…洗い合え」(ヨハネ13章)と命じられます。弱い私たちは「恵み深き主の他…頼りゆくわが身」(讃525番)を慰める方はないと歌います。










2021.7.18

「みこころが成るように…

       ルカ223546


 主イエスの「ゲッセマネの祈り」ですが、ルカの書き方は前向きです。主は苦しみつつも喜んで私たちために死んでくださいます。そして、その救いのメッセージを、私たちが大胆に語るように願われます。

 「彼(メシヤ)は罪人のひとりに数えられた」(イザヤ53:12)とことが主の「身になしとげられ」る時が来ています。弟子たちは、以前の伝道旅行の時のような軽装ではなく(→9、10章)、本格的な伝道開始のために、「財布…袋…」と共に、「つるぎのない者は…買うがよい」とも言われます(昔の道中差のように!)。弟子たちは、武器の用意の事だと思って「つるぎが二振り」と答えます(主の意図を誤解して!)。

 主は「いつものようにオリブ山に…いつもの場所(→ゲッセマネ→油絞り場)行かれます(→21:37)。「キリストはまるで敵(ユダ)と打ち合わせたように死に赴かれる。」(カルヴァン) 弟子たちから「石を投げてとどくほど」の所に行って、「父よ…この杯をわたしから取りのけてください」と訴えつつ、「みこころが成るように」締めくくられます

 その時の主は「苦しみもだえて…汗が血のしたたりのように地に落」ちるほどでしたが(医者ルカ!)、祈り終えて弟子たちの所に来られると、彼らが「悲しみのはて(泣き疲れて眠る子供のように!)寝入っている」のを優しく見られます。彼らの弱さを思いやりつつ、「誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい」と言われます(→「主の祈り」の「われらをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」)。

 主は「みこころが成るように」と祈って模範を示されます(→「主の祈り」の「みこころの天になるごとく…」)。主の十字架の苦しみを見て「われ何をなして主に報いし」(讃332番)と歌いつつ伝道する者は幸いです。

 





2021.7.25


イエスに接吻しようとして

       ルカ224753


「ゲッセマネの祈り」に続いて「イエスの逮捕」という話になります。主イエスはユダヤ人指導者たちによって捕らえられます。その時の主は全く孤独でした。それでも人間の友となってくださる神の御子です。

 オリブ山で「イエスがまだそう言っておられるうちに…ユダという者が…イエスに接吻しようとして近づいて」来ます。「感謝や尊敬を表わす行為が、最も卑しい企みのために悪意をもって使用されるのである。」(カルヴァン)。「ユダ、あなたは接吻をもって人の子(私)を裏切るのか」と、主は悲痛な声をあげられます。主の心は傷つきます(ルカの観察!)。

 「イエスのそばにいた人たち(弟子たち)は…なりゆきを見て、「主よ、つるぎで切りつけてやりましょうか」と言うと、主の返事も待たずに行動します。後に使徒ヨハネはその時の事を詳しく書きました。「シモン・ペテロは…右の耳を…その僕の名はマルコスであった。」(ヨハネ18:10)。それもまた主の御心を傷つける行動でした(→「やめなさい」!)。

 主は「その僕の耳に手を触れて」癒されます(→「片耳のマルコス」と呼ばれる信者)。主はまた自分を捕らえるのに「強盗にむかうように剣や棒を持って出てきた」人々の態度によっても傷つけられます(「敵ながら天晴」という尊敬の欠如)。全く今は「やみの支配の時である」と言いつつ、それに負けない神の御子です(→光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」〈ヨハネ1:5)。

 ユダは接吻という、感謝や尊敬、それに何よりも愛情を表現する行為を使って主を裏切ります。どんなに傷ついても主はなお人を愛し、弱い者の友となってくださる御方です。「世の友われらを捨て去る時」でもなお「慈しみ深き友なるイエス」(讃312番)と歌える者は幸いです。