2021.11.7

彼らにバプテスマを施し…」

      マタイ福音書281620


 「宗教改革記念礼拝」なので、洗礼についてカトリック教会とプロテスタント教会はどう違かを考えましょう。(ライバル→好敵手)。前者は洗礼それ自体に力があると考えます(→『カトリック教会のカテキズム』→「緊急洗礼の執行」)。後者はそのあとの教育が大切だと考えます。

 主イエスは復活された後、ガリラヤの山の上で弟子たちに会い、「わたしは、天においても地においても、一切の権威を授けられた」と宣言されます(天と地の支配者なる主!)。その御方が洗礼を制定されます。

 主の御命令は4つあります。①「あなたがたは行って…」と、フットワークを軽くして世界中に出て行けと言われます(→ヨハネ4章「目をあげて畑を見よ」)。②「すべての国民を弟子とし…」と、ユダヤ人だけでなく異邦人も主の弟子にすべきです(→使徒10章「ペテロの失敗」)。③「父と子と聖霊の名によって、彼らにバプテスマ(洗礼)を施し…」と、」三位一体の神の名による洗礼の執行が命じられます(→「エホバの証人」や「無教会主義」の問題)。④「命じておいたいっさいのことを守るように教えよ」と、洗礼の後の教育が大切です。「教皇が自分に与えられているとする権威にこの命令も加えれば良かったのに!」(カルヴァン)

 主は最後に「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という約束を付け加えられます。困難な時も、苦しい時も、それが私たちの慰めであり、励ましです(それを語る説教が必要!)。

 主は「彼ら(すべての国民)にバプテスマを施し」て欲しいと語られます。ハードルを高くして、少数者にだけ洗礼を施すのではなく、もっと多くの人々にそうすべきです(日本の教会の問題!)。「我に来よと主は今、優しく呼びたもう」(讃517番)と歌いつつ、教会に招きたいのです。






2021.11.14


あなたの先祖の国へ帰り…なさい

        創世記31:1-21


 カナンへ帰ろうとするヤコブですが、富める者となった彼に対するランと息子たちの嫉妬に苦しめられます(右からの試練!)。主なる神は彼の背中を押して立ち上がらせ、帰るのを助けられます。

 ヤコブはラバンの息子たちが不満を持ち、「ラバンの顔が…以前のようではなかった」ことに気が付いても、すぐには行動しません。臆病になっている彼に対して、主は「あなたの先祖の国へ帰り…なさい」と命じ、「わたしはあなたと共にいる」と約束されます(御言葉に背中を押される!)。

 勇気を与えられたヤコブは行動を開始します。彼は用心深く「ラケルとレアとを…招き」ます。「妻たちが自分の身を守るために夫を裏切って、敵に引き渡す恐れもあった。」(カルヴァン) 彼は「わたしの父の神はわたしと共におられる」と言った上で、誠実にこれまでのラバンと自分との事情を説明し、主が「わたしはべテルの神です…いま立って…生まれた国へ帰りなさい」と命じられたと語ります(信仰による説得力!)。

 ヤコブの言葉に対して、ラケルの方が積極的な感じで答えます。「わたしたちは父に他人のように思われている…何事でも神があなたにお告げになった事をしてください」と従う意志を示します。それに励まされて、ヤコブは「子らと妻たちをらくだに乗せ…カナンの地におる父イサクのもとへ赴」きます(ラバンが羊の毛を切っている時をねらって!)。「ラケルは父の所有のテラピムを盗み出した」のも彼女の気転を示しています。

 ヤコブに立ち上がって行動する勇気を与えたのは神の御言葉でした(→故副牧師の日記「礼拝でみことばを聴くことが出来たのが一番の祝福であった」)。「主我を愛す…我弱くとも恐れはあらじ」と歌いつつ、「我を清めて良き働きをなさしめ給え」(讃461番)と前進するのです。








2021.11.21

イサクのかしこむ者

        創世記31:2255


 ラバンのもとから密かに逃げ出したヤコブたちですが、「ギレアデの地」(カナンに入る直前)で追いつかれてしまいます。危機一髪のような状況の中でも、主なる神は助け手となってくださいます。

 ラバンは「一族を率いて」(軍隊のように!)追って来ますが、主は彼に夜の間に現れて「あなたは心してヤコブに、よしあしを言ってはなりません」と命じられます。ラバンは態度を変えて「わたしは手鼓(タンバリン)や琴で喜び歌ってあなたを送り出そうとしていたのに」と心にもないことを言ってヤコブを苦します(DV!)。それよりも「なぜ…わたしの神を盗んだのですか」と、テラピムのことを心配します。

 この問題も、ラケルが「らくだのくらの下に入れ、その上にすわって」上手に隠します。元気になったヤコブはこれまでの苦労を語ります。「この20年、あなたと一緒にいましたが…あなたは十度もわたしの報酬を変えられ」たので、「もし…イサクのかしこむ者(主)がわたしと共におられなかったら…から手で去らせ」たでしょう。しかし主は「わたしの労苦を顧みられる」方であると感謝します(正直者が馬鹿を見ない!)。

 態度を和らげたラバンが「契約を結んで…証拠としましょう」と言うと、ヤコブはそれに応じて「一つの石塚(ガル)を造」り、そこは「ガルエド」(→ギレアデ「証拠の石塚」)と呼ばれます。「ヤコブは極めて柔軟に和解に応じている。」(カルヴァン)。 和解が成立し「ヤコブは父イサクの(恐れ)かしこむ者によって誓い」ます(→マタイ5章「平和を作り出す者」)。

 今のヤコブ、父イサクが恐れかしこんでいた神を自分のとして受け止めることが出来ます。「まことの御神を頼める人」は、苦しみの多い「この世の旅路を勇ましく進まん」(讃304番)と歌って生きるのです。







2021.11.28

キリストが肉体をとって

        Ⅱヨハネ1-13


   アドベント(待降節)なので、主イエスのご降誕について主の弟子のハネが書いた手紙を読みましょう。ヨハネは、教会の人たちが具体的に愛に生きるために主は肉体をとって来てくださったのだ、と語ります。

   主の母マリヤを引き取ってから(→ヨハネ19章)、今のヨハネはエペソ教会の牧師ですが、「長老のわたしから…選ばれた婦人(教会)とその子(教会員)たちに」として、周辺の教会の一つにこの手紙を書きます。その教会から訪ねて来た「あなたの子供たち…真理のうちを歩いているのを見て…非常に喜んでいる」と手放しで喜ぶヨハネです(ジジバカ!)。

 彼らの報告を受けて心配になったヨハネは「互いに愛し合おう」という古い戒めを語ります(→ヨハネ13章)。大切なのは「父(なる神)の戒めどおりに歩く(行動する)」ことです。しかし今「キリストが肉体をとってこられたことを告白しないで人を惑わす者」が横行しています(→グノーシス派)→ギリシャ哲学的信仰者)。彼らは「反キリスト」です。

 「よく注意して、わたしたち(伝道者)の働いて得た成果を失う」ことがないようにと語り、彼らは「キリストの教をとおり過ごして」いるのだから「その人を家に入れることも、あいさつすることもしてはいけない」とアドバイスします(「お断わりの決めゼリフ」)。今のヨハネは年を取っていますが、「紙と墨」とで書くよりも「あなたがたのところに行き…共に喜びに満ちあふれたい」のです(オンラインの中での願い!)。

 「キリストが肉体をとって」この世界に来てくださったというのがクリスマスのメッセージです。私たちと同じ肉体を持って、主は汗を流し、飢え渇き、十字架にかかって苦しまれました(きれいではない!)。「生ける者凡て(すべての肉なる者)」(讃100番)