2023.5.7

 

しかし、恵みの賜物は…」

         ローマ1221


 「福音に生きる」という場合に、パウロは先ず信仰による神との平和を語りました(消極的解決!)。その次に彼は、主イエスの救いの恵みはアダムとは比べ物にならないほど大きいと語ります(積極的解決!)。

 「一人の人(アダム)によって…(魂の)死が入り込んだ…すべての人が罪を犯した」とパウロは人間の歴史を語ります(→創世記3章以下→二条城と大政奉還)。「アダムからモーセまで…死は(王者のように)支配」したと言い、「アダムは来るべき方(キリスト)の雛型(タイプ)です」と対応させます(→Ⅰコリント15章「最後のアダム」)。

 罪の力が大きくても、「恵みの賜物は…多くの人に満ち溢れ…多くの過ち(罪)が義と認められ」るのだとパウロは強調します。「一人(アダム)を通して死が支配するようになった」世界の中でも、「恵みと義の支配とを豊かに受けている人たち(クリスチャン)は…命にあって支配する」のです(→ロシアで活躍する音楽家たち)。キリストの恵みはアダムの呪いを滅ぼし、キリストの命はアダムの死を飲み干す。」(カルヴァン) 

 結論としてパウロは、「一人(アダム)の過ちによってすべての人が罪に定められたように、一人(キリスト)の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになった」と語ります。律法が針で刺すようにして罪を知らせても、「恵みはなおいっそう満ち溢れ…私たちの主イエス・キリストを通して永遠の命へと導く」のだと語ります(→ヨハネ3章「神の国への新生」→10章「羊に命を豊かに得させる」)。

 「恵みの賜物」(カリスマ)は罪の力にはるかに勝る「神の(ダイナマイトのような)力」(1章)です。「あまつ真清水」(讃217番)が濁った水を変えると信じて、「げ命のましみずを」と歌う者は幸いです。

 








2023.5.14


新しい命に生きるため…」

           ローマ14


 クリスチャンになっても、必ずしも全員が喜んで信仰生活をするとは限りません(→大学入学者の不満)。パウロは、救われて神の民になった者たちが、新しい命にふさわしい生き方を喜んでして欲しいのです。

 「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ち溢れ」(5章)と聞くと、「恵みが増すようにと、罪にとどまるべき」だと考えるまぜっかえし屋がいます(→「本願ぼこり」→「無律法主義者」)。パウロは「決してそうではない」と断言し、「洗礼によってキリストと共に葬られ…死にあずかる者」となっている事実に目を向けさせます(洗礼の意味!)。それは「新しい命に生きるため」です(→ヨハネ8章「姦淫の女」)。

 私たちは「キリストの死と…復活に…同じ状態になる」ように救われているのです。「この言葉は私たちをキリストと一つにし命を与える神秘的結合を意味している。」(カルヴァン) 「キリストが死なれたのは、ただ一度(決定的に)罪に対して」であり、今は「神に対して生きて」おられるように、「あなたがたも…死んだ者…生きている者…と考え(計算し)なさい」と迫ります(→エフェソ4章「新しい人を着る」)。

 具体的には「死ぬべき体(全体)を罪に支配させたり、「五体(口語訳「肢体」→体の各部分)を…罪に献げ」たりするのではなく、「自分自身を死者の中から生かされた者として神に献げ」る生き方をすべきです(→12章「自分の体を…神に…献げなさい」→真の神礼拝)。そうすれば「罪があなたがたを(王者のように)支配することはありません」。

 「我らも新しき命に歩まんため」(文語訳)と、パウロはクリスチャンの具体的な人生の生き方語ります。「み恵を身に受くれば」(讃448番)と歌いつつ、「いざ進め」と活発な歩みをする者は幸いです。









2023.5.21

 

義の奴隷として献げて…」

         ローマ1523


 ローマ書6章からは新しい命を受けた者の生き方の問題です。(→シンプソン「潔め主イエス・キリスト」)。パウロは、クリスチャンたちが罪から解放されて、その自由を神に仕えるために使って欲しいのです。

 「律法の下にではなく、恵みの下にいる」と聞くと、「罪を犯そう」と言う者もいますが、クリスチャンは「かつては罪の奴隷」であったのに、今は「罪から自由に(解放)され、義の奴隷となった」のです(→1章「キリストの僕(奴隷)」)。「伝えられた教えの基準に心から聞き従って」とあるように、教会の教えに素直に従った結果です(「洗礼教育」)。今では「神の作品(傑作)」(エフェソ2章)とされているのです。

 パウロは「あなたがたの肉の弱さを考慮して…わかりやすい物言い(口語訳「人間的な言い方」)をして」います(奴隷のたとえ!)。「かつて、五体を汚れと不法の奴隷として献げ…たように、今は…義の奴隷として献げて聖なる者に」なって欲しいのです(→ヨハネ13章「洗足」)。

 クリスチャンになる前は「義に対しては自由の身(→口語訳「縁のない者」であり(→「クラシック音楽に縁がない者」)その生き方は「今では恥とするもの…行き着くところは死」でした。「自分自身を嫌悪し、自分の悲惨さに恥じ慌てることを知った者はキリスト教哲学の根本原理を身に着けたと言える。」(カルヴァン) しかし今の生き方は聖なる者となるため…行き着くところは永遠の命」です。パウロは「罪の支払う報酬(給料)は死ですしかし、神の賜物は…永遠の命なのです。とローマのクリスチャンたちに語ります(→マルコ1章「私に付いて来なさい」)。

義(なる主イエス)の奴隷」となり、「私の軛は負いやすく、私の荷は軽い」(マタイ11章)と招いて下さる主に従う生活です。「主よ、終りまで、仕えまつらん」(讃338番)と歌いつつ歩む者は幸いです。










2023.5.28

あなたがたをみなしごにはしておかない…」

         ヨハネ141531


 ペンテコステなので、ヨハネ福音書の「別れの説教」の、聖霊の働きについて主が教えられたことから説教します。主イエスは、私たちを放っておくことをしないために、聖霊を送ってくださる真の友です。

 最後の晩餐の席で、主イエスは「心を騒がせてはならない」と弟子たちを励まし、「あなた方が私を愛しているならば、私の戒めを守るはずである」と言われます。「キリストへの真実な愛が彼の教えを守ることに結びつけられている。」(カルヴァン) そのために主は、ご自分に代わる「もう一人の弁護者(執り成し手口語訳「助け主」)を遣わす」と約束されます。そうすることで弟子たちを「みなしごにしておかない…(彼らの所に)戻って来る」ことが出来るでしょう(「捨て子に注ぐ親の愛」!)。

 「イスカリオテでない方のユダ」(ルカ6章「ヤコブの子ユダ」→マルコ3章「タダイ」)が、「私たちにはご自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と質問すると、主は「私を愛さない者は、私の言葉を守らない」と答えて、そういう人たちに追従しないようにと警告されます(→16章「私はすでに世に勝っている」)。

 主は「弁護者…父が私の名によってお遣わしになる聖霊が…思い起こさせてくださる」と言って弟子たちを励まし、「私の平和(シャローム)を与える」と約束されます。「世の支配者(サタン)が来」ても大丈夫です。「立て…ここから出かけよう」と言って、食事の席から身を起こし、来るべき試練に立ち向かわせられるのです(→讃380番「立てよ…」)。

 主は弟子たちを「みなしごにしておかない」ために、ご自分の身代わりとなる御方(聖霊)を用意されます(→死の床で子どもを託す母親)。「慈しみ深き友なるイエス」(讃312番)の愛に守られて生きる者は幸いです。