2020.10.4


■「主人が帰ってきたとき…」

         ルカ12:35-48


  天に宝を貯えるという話から、主イエスの再臨のトピック(話題)に移ります。主はやがて天から再び来られますが、弟子たちが主人の帰りを待つのように、準備して待っていて欲しいのです。

  大家の主人が「婚宴から帰って来て戸をたたく」ようにして主は再臨されます(→ヴェロネーゼ「カナの婚礼」)。僕たちは「腰に帯をしめ、あかりをともして」待っているように命じられます(→ブレイク「十人のおとめ」)。主人の帰りは「夜中ごろ、あるいは夜明けごろ」になるかも知れません(→Ⅱペテロ3章「主の日は盗人のように」)。

それでも「主人が帰ってきたとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは、さいわい」です。主人は大喜びで「帯をしめて僕たちを食卓につかせ…給仕をしてくれる」でしょう(特別なこと!)。

 ペテロはその譬話を聞いて「わたしたちのためですか」と質問します。主は「召使たちの上に立てて、時に応じて定めの食事をそなえさせる忠実な思慮深い家令(管理者)」のことだと、教会のリーダーの役目を語られます(牧師や役員!)。教会員を御言葉で養い(青草を与える!)、主に忠実で教会を思慮深く運営する僕は幸いです。

不忠実な僕は「主人の帰りが遅いと心の中で思い…召使たちを打ちたたき…」と勝手な行動をします(教会のカルト化!)。再臨の主は、「彼を厳罰に処」せられるでしょう。「多く与えられた者からは多く求められる」のです(→ヤコブ3章「教師のさばき」)。

 この主人は「親切で優しい」(カルヴァン)のです(→ルカ22:27「給仕をする者」→聖餐)。「あめつち跡なくくずる」時が来ても、「主イエスぞ永久に変わりなき」(讃497番)と信ずる者は幸いです。







2020.10.11



■「受けねばならないバプテスマ…」

          ルカ12:49-59

  

  「エルサレムへの旅」は十字架へ向かう旅です(→9:51「天にあげられる日」)。ここで主イエスは、御自分が受ける苦しみを語り、弟子たちも一般の人々も心備えをして欲しいと言われます。

日頃は穏やかな主が、「火を地上に投じるためにきた」とか、「受けねばならない(死の)バプテスマがある」と言われ、「どんなにか苦しい思いをすることであろう」と訴えられます(戦場に赴く人!)。

 「平和をもたらす」のでなく「むしろ分裂」をもたらし、「父は子に…娘は母に…対立する」ようになるでしょう(→マタイ10章)。そういう主の心をわかって欲しいのです(今年の受難週とイースターの間に出された「緊急事態宣言」とユーチューブによる礼拝配信!)。

 一般の人々に対しては、「雲が西(地中海)に起る」とにわか雨になり、「(アラビア砂漠からの)南風が吹く」と暑くなる、と天候には敏感なのに、「どうして今の時代を見分け」ないのか、「偽善者」と呼ばれます。「彼らははっきり示されていることを見ないと決めているからである」(カルヴァン) それでも伝道すべきです。

 ユダヤ人に対しては、「なぜ正しいことを自分で判断しないのか」と、立派な大人としての判断を求められます(結婚相手を決めるように!)。主は「あなたを訴える人」(罪人の友!)として「一緒に役人(神)のところへ行く」途中です。早く「その人と和解して」神の国に入るべきです(→ヨハネ3章「新しく生まれなければ…」)。

 主は死の洗礼を受けようとしておられます。「彼の死を無駄にするな」と言うべきでしょう。「主にのみ十字架を負わせ…われ知らず顔に」(讃331番)と歌つつ、主のために生きたいのです。









2020.10.18




■「肥料をやって見ますから…」

         ルカ131-


  ユダヤ人たちには、立派な信仰の先輩(アブラハム、モーセ、ダビデ!)がいますが、選民(エリート)意識が問題です。主イエスは、彼らも罪を悔い改めて救われて欲しいのです(ユダヤ人伝道!)。

その頃、「ピラトが(神殿で)ガリラヤ人たちの血を流し…犠牲の血に混ぜた」とか、「シロアム(神殿の南にある池)の塔が倒れた」ために18人が圧死したとかの事件がありました。ユダヤ人たちはその犠牲者に対して、特に「罪が深かった」とか「罪の負債があった」と批判しますが、主は「あなたがたも悔い改めなければ…滅びるであろう」と警告されます。彼らも罪人(つみびと)で、神の心を傷つけているのに気が付かないのです(→15章「放蕩息子とその兄」)。

 主は「ある人(神)が自分のぶどう園(→イザヤ5章)に(一本の)いちじくの木を植えて…」と譬話をされます。「実を捜しにきたが見つからなかった」(→マルコ11章「葉のほかは何も…」)ので、「土地をむだにふさがせて置く」くらいなら「切り倒してしまえ」と厳しく言います。「三年間も実を求めて」忍耐された神ですが、ユダヤ人たちは気が付きません(→サムエル下12章「ダビデの告白」)。

園丁(主イエス)は主人に「そのまわりを掘って肥料をやって見ますから…来年実がなりましたら…」と執り成します(→創世18章「アブラハムとソドム」)。「主は…多くの方法を用いて耕すことによって、もっと多くの実りを生み出させようとされる。」(カルヴァン)

 ユダヤ人への伝道は困難ですが、主はそのための労働をいとわれません(稲刈りの季節!)。その恵みを受けた者は、「罪に枯れたるひと草」のために「注げ命の真清水を」(讃217番)と励むのです。

 












2020.10.25


■「アブラハムの娘であるこの女…」

         ルカ1321


  エルサレムへの旅の途中、主イエスはある会堂(シナゴーグ)で、18年間も病気で苦しんでいた女性を癒されます。主は、小さくて弱い者を大切にされますが、私たちにもそうして欲しいのです。

主は会堂の二階席にいる「かがんだままで、からだを伸ばすことの全くできない女」を見て、「呼びよせ」られます(弱者への関心!)。

「女よ、汝は病より解かれたり」(文語)と言って手を置かれると、「立ちどころに、そのからだがまっすぐになり」ます(→詩18篇「主はわたしを広い所につれ出し」)。彼女は「神をたたえ」ます。

会堂司は「イエスが安息日に病気をいやされたこと」を批判しますが、主は「安息日であっても、自分の牛やろばを家畜小屋から解いて水を飲ませに引き出してやる」ことが許されている反論されます。それと比べて、「アブラハムの娘であるこの女を…束縛から解いてやるのは当然だとされます(→10章「良きサマリヤ人と祭司」。

 喜んでいる群衆に向かって、主は「神の国のたとえ」の話をされます。それは「一粒のからし種」や「パン種」のように小さなものですが、「育って木となり、空の鳥もその枝に宿る」ほど、また「女がそれを取って三斗(3サトン=約40ℓ)の粉に混ぜると、全体がふくらむ」ほどになるのです。「キリストの王国は肉の目にはみすぼらしく見える。」(カルヴァン) 一人一人は「無きにひとしい者」(Ⅰコリント2:28)であっても、主の力が加わると大きく成長するのです。

 主の目にはこの女性も「アブラハムの娘」です(→19章「取税人ザアカイ」)。「わが主にならいて人をば隔てず」に受け入れ、「わが主の大御代(ご支配)」(讃537番)を喜び祝います。