2021.3.7



■「異邦人に引きわたされ…」          

         ルカ183134


   主イエスは、エルサレムに入って行く前に、「第3回受難予告」をされます(第1回は9:22、第2回は9:44)。主はご自分の苦しみを、弟子たちがもっと敏感になってわかって欲しいのです。

 主は「十二弟子を呼び寄せて」(特に彼らに対して)、「見よ…人の子(イエス)について預言者たちがしるしたことは、すべて成就するであろう」と言われます。ペテロは主が「神のキリスト(メシヤ)」(9:20だと告白しますが、「栄光のメシヤ」としてしか理解していません。しかし、預言者は「苦難のメシヤ」語っているのです(→イザヤ53章)。聖書全体を読む必要があります(連続講解説教)!)

 主はご自分が「異邦人(ローマ人)に引きわたされ」と明確に言われます(→9:44「人々の手に渡され」)。ユダヤ人の裁きであれば「石打ち」になるはずでしたが、「十字架刑」になるのです。「あざけられ…むち打たれ…」とその苦しみをつぶさに語られます(→映画「パッション」)。「状況の細かい描写によって、主はご自身の神性の証拠を示される。」(カルヴァン)。それと同時に、「三日目によみがえる」ことによって、やがて福音がローマ帝国全体に広がることも示唆されます。

 しかし、それを聞いた弟子たちは「何一つわからなかった」というのです(「親の心子知らず」!)。「この言葉が彼らに隠されいた」のですが、やがてそれは主ご自身によって明らかにされます(→24章「エマオの途上」)。主は弟子たちの無理解によっても苦しまれます。

 人は誰も苦しむ時、他の人たちがその心を理解してくれるだけで慰められ経験をします私たちも「主にのみ十字架を負わせ」て「知らず顔」(讃331をする者にはなるまい、と歌うのです。







 


2021.3.14




■「ダビデの子イエスよ…」          

        ルカ18:35-43


 エルサレムに近づき、主イエスはエリコ(品川→東京!)で一人の盲人を癒されます。主はご自分が「ダビデの子」であって、苦しんでいる者たちを救うために来たメシヤであることを明らかにされます。

 「イエスが(新しい)エリコに近づかれた時」(マルコ10章「〈古い〉エリコから出かけ」)の話です。「ある盲人が…物ごい」をしていましたが、彼は「ナザレのイエスがお通り」だと聞くと、「ダビデの子(メシヤ)イエスよ、わたしをあわれんでください」と叫び続けます。ペテロも主のことを「神のキリスト」と告白しましたが、「この事をだれにも言うな」(9章)と禁じられていました(「メシヤの秘密!」。しかし、今はもう告白してもよい時になったのです(私たちの礼拝!)。

 「先頭立つ人々(弟子たち?)が彼をしかって黙らせよう」とします。「キリストの名を告白する者の多くが、人々を彼に招くのではなく妨げようとする。」(カルヴァン) 主はこの盲人を招き、「何をしてほしいのか」と尋ねられ、彼は「主よ、見えるようになることです」と迷うことなく求めます(→私たちの祈り「求めよ…与えられん」)。

 主は「見えるようになれ」と求めに応じられます(→マタイ20章「深くあわれんで」)。そして「あなたの信仰があなたを救った」と、彼の信仰を褒められます。彼は「神をあがめながらイエスに従って行」く生活を始めます(→マルコ10章「バルテマイ」という名前の信仰者)。反対していた人々も「みな神をさんびした」という結果になります。

 「ダビデの子イエス」は、栄光の王であるだけでなく罪に苦しむ王でもあるダビデ(→詩32篇)の子孫です。こういうメシヤを知った者は、「恵み深き主」の他に「誰か我を慰めん」(讃525番)と歌うのです。










2021.3.21

■「失われた者を尋ね出して…」          

         ルカ1910


 主イエスはエリコの町でザアカイという人物と出会われます(→大泉勇牧師のペンネーム「ザアカイ生」主はどんなに罪深い者でも尋ね出して救おうとされるメシヤです。

「取税人のかしら」で「ザアカイという名」(ヘブライ語「純粋」)のその人は、「イエスがどんな人か見たいと思って(熱望して)いた」とあります(「ディザイア―」という歌!)。しかし、「背が低かったので、群衆にさえぎられて(意地悪されて?)」、近づくことができなかったのです(日本伝道の可能性→松山静牧師の説教)。

 彼は行動的で、「前の方に走って行って、いちじく桑の木」に登ります。主は彼を見て、「ザアカイよ、急いで下りてきなさい」と呼ばれます(→5章「レビという名の取税人」の紹介?)。主は、「きょう、あなたの家に泊まることにしている(必然性「泊まらねばならない」!)と言われます。「主にとっては彼の家に泊まるよりも、彼の心に住む方がもっと価値のある贈り物であった。」(カルヴァン) ザアカイは喜んで主を迎え入れます(→黙示3章「見よ…戸の外に立ってたたいて」)。

 ユダヤ人たちは「彼は罪人の家にはいってとなった」と批判しますが、ザアカイは幸せです。「誓って自分の財産の半分を貧民に施し…」と、価値観が転換しています。主は「きょう、救いがこの家にた…アブラハムの子なのだ」と祝福されます。「失われた者を尋ね出す(熱望する)」ために主は来られました→15章「失われた羊、銀貨、息子」)。

 私たちの伝道は、主が「尋ね出して」救おうとしてくださる働きのお手伝いです。「罪人を救うためにこの世に来て下さった」(Ⅰテモテ1章)御方に、「主のみ恵みは限りなきかな」(讃249番)と歌うのです








 

 




2021.3.28


      

■「その骨はくだかれない…」

        ヨハネ193137


 使徒ヨハネは、主イエスの死について、他の福音書記者たちが書かなかったことをあとから記録しました。主の死は、普通の死ではなく、特別な意味を持っていた、ということを語りたかったのです。 

 「すべてが終わった」と言って主が息をひきとられたのは金曜日の午後でした。ユダヤ人たちは「その日が(安息日の)準備の日」であり、しかも「特に(過越の祭の)大事な日」なので、「死体を十字架の上に残しておくまい」とします。そのために「足を折った上で、死体を取りおろす」ことをピラトに願い出ます(足の支えがなくなって心臓を圧迫して死を早める!)。これによって主の死が確かめられます。

 兵卒たちは木のハンマーで「一緒に十字架につけられた」二人の強盗の足を折って死に至らせますが、「イエスはもう死んでおられたのを見て」足を折ることはしません。その代わりに「一人の兵卒がやりでそのわきを突き」さします(→20章「トマス」)。「すぐ血と水とが流れ出た」のは罪の潔めの象徴です(→1章「世の罪を取り除く神の子羊」)。

 「それを見た者」として、ヨハネは「あかし」(証言)をしますが、それは「あなたがたも信ずるように」したいからです。「その骨はくだかれない」(出12:45)とは主が過越の子羊である証拠です。「兵卒たちが…主の体に触れなかったのは神の摂理である。」(カルヴァン) 「彼らは自分が刺し通した者を見る」(ゼカリヤ12:10)とは、悔い改めて主を信じた者たちが天国で感謝する有様を語っています。

 信じる者たちに対しては、ダビデのように「主は彼の骨をことごとく守られる」(詩34篇)と約束されます。主の「裂かれた脇」の傷の中に入れられて「千歳の岩よ、わが身を囲め」(讃260番)と歌うのです。