2020.11.1



■「パンを食べ杯を飲む者…」

       Ⅰコリント112329


  「宗教改革記念礼拝」なので、プロテスタント教会として、カトリック教会に対する関心事を取り上げます。ここでパウロは、聖餐がどんなに大切かを教え、それを正しく守って欲しい、と語ります。

コリント教会では主日の夕の礼拝の時、愛餐(アガペー)をしてから聖餐を守っていましたが、「飢えている人…酔っている人」とバラバラでした。パウロは改めて「主から(ペテロたちを通して)受けたこと」を語ります(→聖餐の制定)。主は「最後の晩餐」の時、パンを取って、「これは…わたしのからだである」と言って弟子たちに与えられました。カトリック教会はそれを「化体説」として神秘化します(→『カトリック教会のカテキズム』→「全実体変化」)。

 ぶどう酒について主は、「この杯は、わたしの血による新しい契約である」と言って、シナイ山でモーセの時に結ばれた古い契約に代わる新しい神の民の印とされます。この両方を受けて、「主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせる」のです(伝道する教会!)。カトリック教会では杯は司祭だけが飲み、信徒にはパンだけで十分とします(→同上「パンの形態だけの拝領でも同じ恵み」)。

 聖餐を受ける時、「ふさわしくないまま」で、「自分にさばきを招く」ことがないように、「まず自分を吟味」すべきです(御言葉を聞いて!)。「あなたが神の義を強く望み、自分のみじめさを知ってへり下るなら…聖なる食卓に与るにふさわしい。」(カルヴァン)

 「パンを食べ杯を飲む者」は、それを軽視(無教会)せず、神秘化(カトリック)せず、「文書の証印」(プロテスタント)として重んじ、「わが主よ、今ここにて」(讃205番)と喜んで賛美します。










2020.11.8



■「先のものであとになるもの…」

         ルカ132235


  「エルサレムへの旅」が終わりに近づいても、多くのユダヤ人は信じていません。主イエスは、彼らが選民だからと安心せず、ゴールに向かって進んで欲しいのです(→イソップ物語「ウサギとカメ)。

他人事のように「救われる人は少ないのですか」と問う人に対して、主は「力を尽して狭き門(→ヨハネ10章「わたしは羊の門」)より入れ」(文語)と厳しく言われます。世の終わりの時に「戸が閉じ」られてから「ご主人様、どうぞあけてください」と頼んでも遅いのです。

 多くの異邦人が「神の国で宴会の席につく」でしょう。「先のものであとになる」のは残念です(→水戸黄門「さあ歩け」)。

 「あるパリサイ人たち」は親切を装って、「ヘロデがあなたを殺そうとしています」と言い、「ここ(ペレヤ地方)から出て行きなさい」と勧めます。そこにヘロデのずるい計略を見て、主は「あのきつね」と呼び、「預言者がエルサレム以外の地で死ぬことは、あり得ない」(→20章「主人の愛子を殺す農夫のたとえ」)ので、危険を恐れないで「三日目にわざを終える」までは働く、と決意を述べられます。

 エルサレムでのご自分の死が近いことを思って、主は、「めんどりが翼の下にひなを集めるように」して招かれても応じないユダヤ人たの忘恩を嘆かれます(→申命記32章「わしとその巣のひな」)。結局、「おまえたちの家(神殿・都)は見捨てられ(AD70年!)、やがて彼らは「主の名によってきたるもの(メシヤ)に、祝福あれ」(詩118篇)と言うでしょう。「もはや遅すぎるのだが…」(カルヴァン)

 そうならないために、「イエスを仰ぎ見つつ」(ヘブル12章)走るべきです。今も「主はやさしく呼びたもう」(讃517番)のです。

 



2020.11.15


 

■「自分を低くする者は高くされる…」

          ルカ1414


  ある安息日の午後、主イエスは「パリサイ派のかしらの家」に食事に招かれます(→アメリカ南部の「サンデーディナー」)。主は彼らの様子を見て、自分は正しいとすることが問題だと言われます。

その食事の席に「水腫をわずらっている人」が癒しを求めて来ていますが、パリサイ人たちは「イエスの様子をうかがって」いるだけです。主は彼に、手を置いて癒して帰され、「自分のむすこか牛が井戸に落ち込んだなら…」と、自分のこととして考えて欲しいと言われます。健康であるのは当り前ではないのです(神からの贈り物!)。

招かれた客たちが「上座を選んでいる様子」を見て、主は彼らの心の中にある競争心を問題にされます。一つの譬(たとえ)話として、主人から「このかたに席を譲ってください」と言われて恥じ入るよりも、「友よ、上座の方へお進みください」と言われる方が良い、と教えられます。「神があなたの高ぶりを罰するために同じことをされないようにしなさい。」(カルヴァン) 「自分を高くする者は低くされる」のです(→Ⅰコリント4章「あなたの持っているもの」)。

 主人が「友人、兄弟、親族、金持の隣り人」ばかり招いているのを見て、主は「貧しい人…目の見えない人」など「返礼できない」人たも招くべきだ、と言われます。そうすれば「あなたは(素晴しく)さいわいになる」でしょう。そうしないと「復活の際に…報いられ」ません(→12章「神に対して富まない愚かな金持」)。

 大切なことは、「自分を高くする者」でなく「自分を低くする者」になることです(→18章「取税人」)。パウロのように(→Ⅰテモテ1:15)。「われ罪人の頭なれども」(讃249番)と歌うのです。



2020.11.22


■「ある人が盛大な晩餐会を催して…」

         ルカ14

 

   前回と同じ食卓の席で、主イエスは、神の国での「盛大な晩餐会」の譬え話をされます(→世界大会での「オープニングバンケット」)。

 招かれた者が喜んでそれに応じてやって来て欲しいのです。

来客の中で「神の国で食事をする人は、幸いです」と、自分は当然その一人だと思って言う人がいました。主は「ある人(神)が盛大な晩餐会を催して、大ぜいの人を招いた」と、アブラハムの時からユダヤ人に与えられた祝福を語られます(→創世記12章「祝福の基となる」)。やがて「晩餐の時刻」になって(→マタイ22章「王が王子のために婚宴を催す」)、「さあ、おいでください」と、主人は僕に言わせます(→ヨハネ4章「目をあげて畑を見なさい」)。

 このように「至れり尽くせり」で招かれているのに、「みんな一様に断りはじめ」ます。「土地を買いました…五対の牛を買いました…妻をめとりました(→申命24:5「妻をめとった時」)…」という理由で「ドタキャン」するのです。彼らなりに大切な事ですが、もっと切な事があります(→マタイ6章「先ず神の国と…添えて…」)。

 ユダヤ人の指導者たちが拒否したので、主人「町の大通りや小道へ行って、貧しい人…足悪い人」などを僕に招かせますが、まだ席が残っています。主人は「道やかきねのあたりに出て行って…人々を無理やりに(説得して)ひっぱってきなさい」と命じます。「ここでは異邦人たちの召しが述べられる。」(カルヴァン)

 この「僕」として、神の御子が来てくださいました(→ヘブル11章「御子によって」)。「父の備えましし楽しきすみか」(讃488番→ヨハネ14章)に招かれている者は「輝きの御国」を待ち望みます。










2020.11.29


■「わたしの弟子となることは…」

         ルカ1435


  主イエスが「エルサレムへの旅」をしておられる中で、「大ぜいの群衆がついて」来ます。主は彼らが「不肖の弟子」ではなく、きびしい道を歩むためにこの世界に来た御子に肖(に)て欲しいのです。

主は彼らに向かって「父、母…さらに自分の命までも捨てて(憎む覚悟で)…来るのでなければ、わたしの弟子になることはできない」と言われます(→9:57以下)。主ご自身が十字架を負う覚悟ですから(→9章「第一回受難予告」)、「自分の十字架を負うて」ついて来て欲しいのです。「十字架を負う時、私たちはキリストの仲間になるのであり、それがすべての苦しみを緩和する。」(カルヴァン)

 主に従って信仰生活をするためには力と知恵が必要です(→建築と戦争の例)。「邸宅を建てようと思うなら…費用を計算」しなければ完成できず、「建てかけたが、仕上げができなかった」とあざ笑われるでしょう。「ほかの王と戦いを交える」場合、「もし自分の力にあまれば…和を求める」知恵がないと負けるでしょう(→12章「訴える人との和解」」)。「自分の財産を…捨て切る」ほどに主に信頼する者なら大丈夫です(→マタイ28章「いつもあなたがたと共に」)。

 「確かに塩は良いもの」(新共同訳)です(→マタイ5章「腐敗を防ぎ塩味を付ける働き」→コロサイ4:6)。しかし、「塩もききめがなくなったら…外に投げ捨てられてしまう」でしょう(死海沿岸の岩塩!)。主ご自身が良い塩です(→ヨハネ15章「ぶどうの木」)。

 「聞く耳のあるもの」となって、弟子として主を迎えて欲しいのです(「キリスト在りのクリスマス」!)。「まぶねの中に産声あげ…十字架の上に」(讃121番)あげられた「この人を見よ」と歌います。