2021.12.5


よく見て手でさわったもの

        ヨハネ1:1


   小アジア地方(今のトルコ西部)で横行していたグノーシス派(→ギリシャ語「真知派」)が知識を誇るのに対して、主は「いのち」(赤ちゃんの温もり!)を与えるために来られたのだ、と使徒ヨハネは語ります。

   この第一の手紙は、エペソの教会から周辺の諸教会に回覧するために書かれたようです(挨拶がない!)。彼らが「永遠のいのちを持っていることを悟らせるために」(5:13)書いたのです。主は「初めからあったもの」だとヨハネは言います。世界を創造された神なのです(創世記1章)。長く主と共に生活したヨハネがそう言うのです(欠点が見えるはず!)

   神の御子が人間となって来られて、「わたしたちが聞いた」のは「きてごらんなさい」(ヨハネ1:35)という招きの言葉でした。「目で見たもの」は輝く栄光の姿でした(→ルカ9章「山上の姿変わり」)。「よく見て(文語訳「つらつら見て」)手でさわった」のは復活の体でした(→ルカ24章「わたしの手や足を見なさい」)。目を凝らして見たのです(劇場!)

  この御方は「いのちの言(ギリシャ語「ロゴス」)でありました(→ヨハネ1章「初めに言があった」)。人の言葉は傷つけたり、苦しめたりすることがあります。しかし、主が来られたのは人に命を与えるためでした。

 「使徒(ヨハネ)は先ず、命がキリストのうちにあって私たちに現れた、と提示するのである。」(カルヴァン) 「わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに(英語「アバンダントリー」)得させるため」(ヨハネ10:10)だと言われます(→ディック宣教師のバイブルクラス)。 

   年老いたヨハネの手には主の体に触れた時の温もりがまだ残っています。それが人を生かす力です。「とこしなえの御言は今ぞ人となりたもう」(讃111番)と歌いつつ「急ぎ行きて拝まずや」と呼びかけます。






2021.12.12


わたしたちに現れた

          ヨハネ1:

 使徒ヨハネは「愛」(アガペー)や「いのち」(ゾーエー)等のキーワードをよく使います(老人の癖?)。私たちは主イエスがこの世界に救い主として来られたことを「あかし」(マルチュリア)すべきです。

 ヨハネは「わたしたちが聞いたもの…よく見て手でさわったもの」と断言しました(「百聞は一見に如かず」→Ⅰペテロ1:8)。しかし、もっと嚙み砕いて説明するために「このいのち(主イエス)が現れた(見える姿で来られた)…わたしたちは見た」ということを強調します(2節は挿入文)。復活の主の体も実体がありました(→ヨハネ20章「閉まっているの問題」)。当時のグノーシス派はそれを否定します(「仮現説」!)。

  ヨハネとしては自分の目で見たことについて「そのあかし(証言)をし…告げ知らせる」責任があります。他の使徒たちはすでに死んでいて、彼は唯一の「生き証人」です。残り少ない生涯の中で、彼はその証をし、告げ知らせる責任を痛感しています(伝道!)彼の師であった洗礼者ヨハネは「荒野で呼ばわる者の声」(ヨハネ1:23)に徹したのです。

 主イエスが見える姿で来られたことを強調するだけでは、特に優れた歴史上の人物というくらいに誤解されるかも知れません(世界の四大聖人!)。ヨハネは「この永遠の命(主イエス)は、父(なる神)と共にいましたが、今やわたしたちに現れた」と付け加えます。「御子は絶えず父と共にあったので…現れた時から存在し始めたのではない。」(カルヴァン)

 クリスマスは文字通り「ありがたい(有り難い)」出来事であります。「箱入り娘」は簡単に人に見せないものですが、父なる神はご自分の大切な独り子を見える姿にしてこの世界にプレゼントされます。「諸人こぞりて迎えまつれ」(讃112番)と招きつつ「主は来ませリ」と喜ぶのです。







2021.12.19

喜びが満ちあふれるために

          ヨハネ1:3-4 


    使徒ヨハネのキーワードは「交わり」(コイノニア)です(→福山教の「コイノニア館」→「交流館」)。ヨハネは、私たちが主なる神と交わると共に信仰者同士の交わりも大切にして、喜びに満ちて欲しいのです。

   人間には交わりが必要です(→創世記2章「人がひとりでいるのは良くない」)。グノーシス派は他のクリスチャンと交わろうとしないので、心配したヨハネはこの手紙を書き、それは「あなたがた(小アジアの諸教会の信者)も、わたしたち(エペソ教会の信者)の交わりにあずかるようになるため」だと言います。信仰者同士の心の交流がないと信仰生活が弱ってしまいます(血流が滞ると病気になるように!)。

 人間同士の交わりも大きな力になりますが(友人や夫婦!)、それだけでは十分ではありません。ヨハネはわたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである」と言います。「使徒は福音によって私たちが至福を得ると断言する。」(カルヴァン) 父なる神は「ふところにいるひとりなる神(主イエス)」(ヨハネ1)をこの世界に送ってくださいました(クリスマス!)。今も主は「ふたりまたは三人が…集まっているところ」(マタイ18章「礼拝の場」)に共にいて、私たちに力を与えてくださいます(礼拝に参加する恵み!)。

 ヨハネがこの手紙を書くのは「わたしたちの喜び(カーラー)が満ちあふれるため」です(→「あなたがたの」とある写本)。老人となってもなお、ヨハネは喜ぶことが出来ます(「それにもかかわらず」!)
 「あなたの若い日に…造り主を覚えよ」(伝道の書12章)とあるように、信仰者は年老いても楽しみがあります。「神の御子現れぬ」(讃108番)と歌いつつ「いざ歌え、いざ祝え」と単純率直に喜ぶのです。






2021.12.26


光の中を歩く

          ヨハネ1:5-10


 2021年の最後の礼拝では「光」(フォース)がキーワードになります。使徒ヨハネは、私たちが主なる神という光を知り、主イエスという光と共に歩んで、暗闇に負けないで欲しいのです(→ドラマ「日なたの道」)。

 ヨハネが「イエスから聞いて…伝える」メッセージは「神は光であって…少しの暗いところもない」ということです(→ヤコブ1章「光の父」)。喜んで信仰生活をしていた小アジア地方のクリスチャンたちが、グノーシス派の影響を受けて暗くなるのが心配です。「(光である)神と交わりをしていると言いながら…やみの中を歩いている」というのは変です。

 光の神を見ながらわたしたちも光の中を歩くなら…互いに交わりを持ち(ウオーキング仲間!)、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめ」てくださいます(→ヨハネ13章「弟子たちの足を洗う主」)。「罪の無償の赦しはただ一回だけ与えられるものではなく、日々信仰者に与えられる恵みである。」(カルヴァン) グノーシス派のように「罪がない」と言うのは「自分を欺く」ことです(「主の祈り」の「罪の赦しを求める祈り」を2000年間クリスチャンたちは唱えて来た!)。

 ヨハネは「わたしたちが自分の罪を告白するならば…きよめて下さる」と勧めます(→ルカ18章「パリサイ人と取税人」)。ヨハネ自身が今もそうしているのです。「罪を犯したことがない」という者は「神を偽り者とする」ことになります(神を嘘つき呼ばわりする!)。

 年老いたヨハネですが、今も光の中を歩み続けようとしています(→シンプソンの父ジェームズについて娘のルイーザは「父の生涯は太陽の光の中で輝いているようでした」と語る→『シンプソンーその生涯と働きー』)。

「光に歩めよ」(讃326番)と歌いつつ、神の光の中を歩む者は幸いです。