「モーセは手に神の杖を持って…」
出エジプト記4:18-31
やっと本気になって立ち上がると、モーセは行動を開始します。40年間も暮らした所から出発するのですから簡単ではありません(→牧師の引っ越し)。主はエジプトへ行く彼のためにいろいろと準備されます。
彼は先ずしゅうとのエトロに挨拶し、「どうかエジプトにいる親族のもとに帰らせてください」と詳しくは話しませんが、事情を察しているエトロは「安心して行きなさい」と快く送り出します。モーセは「妻と息子たち(ゲルショムとエリエゼル)を連れ、ろばに乗せ」と貧しい姿ですが、「手に神の杖」を持っているので心強いのです。主はあらかじめ「ファラオの心を…かたくなにする」と警告されます(→ローマ9章)。
途中の宿泊地で「主はモーセと出会い、彼を殺そうと」(急病?)されます。それを息子(エリエぜル)の割礼を怠ったモーセへの神の怒りだと察したツイポラは「火打ち石を取って、その息子の包皮を切り、それをモーセの両足に付け」て、彼に代わって割礼を施します。「彼の熱心さは冷えて生ぬるくなっていた。」(カルヴァン) 「あなたは血の花婿です」とは彼女なりのユーモアでしょう(→コへレト4章「一人より二人」。)
モーセのことを心配して訪ねてきた兄のアロンが「神の山でモーセに出会い、口づけをし」て喜びます。エジプトに着いた時「イスラエルの長老を全員集め」て、「主がモーセに語られた言葉をアロンがすべて語」ります(信頼できる通訳者!)。「彼らは、主がイスラエルの人々を顧み、その苦しみをご覧になった」ことを聞いて、「ひざまずいてひれ伏し」ます。
旅に出るにあたってモーセは「手に神に杖をもって」います(→毛布を持って安心する赤ちゃん)。「信仰こそ旅路を導く杖」(讃270番)と歌いつつ、神の助けを信じて歩む者は幸いです。
※ 過去の説教は、月ごとにまとめてあります。 (2018年8月~)
JAMリーダーシップセミナーのために
「聖書に帰ろう
ー聖書の力と読み方を考えるー」
生田嘉文
序:なぜ「聖書に帰ろう」か?
マーク・トウエインの「トムソーヤー」の話
David Jones “A.B.Simpson-The Unlikely Founder of AGlobal Movement”
『新約全書』(1880年)『旧約全書』(1887年)『改正訳新約聖書(大正訳)』(1917年)
「御霊の内的な証し(internal testimony of the Spirit)によって…」(綱要Ⅰの7の4)
渡辺信夫『教会論入門』(新教新書) 神学の4部門(聖書、歴史、組織、実践)
“The Layman’s Bible Commentary”(25vols 『聖書講解全書』日キ教団出版局)
「NT各巻の成立年代」
「祈祷会の聖書テキスト」 「主日礼拝の聖書テキスト」
結び:聖書の力 ルカ4:1-13
Ⅱ 午後の部「聖書と私」(後半)
序:どの聖書か?
『聖書協会訳(口語)聖書』(1955年)『新改訳聖書』(1970年)『新共同訳聖書』(1987年)
『新改訳2017』(2017年) 『聖書協会共同訳』(2018年)
“Harmony of Matt. Mark, Luke” (“Calvin’s Commentaries” 22 vols 1979 rep. Baker)
3.私の説教スタイル(ルカ2:41-52)
A.B.Simpson “The Christ in the Bible Commentary” (6vols 1992 Christian Pub.)
①序論(テキストのアウトラインとテーマの提示) ②第1ポイント“Action of Jesus”
③第2ポイント“Surprise of Parents” ④第3ポイント“Message of Jesus”
4.祈祷会のテキスト
①詩篇 ②ピレモン書 ③Ⅰペテロ書 ④Ⅱペテロ書
小畑進『ピレモンへの手紙講録』(2008年 いのちのことば社)
結び:聖書の読み方 ヨハネ5:39-40
祈祷会の聖書テキスト
(福山アライアンス教会)
ヨナ書 1989年8/30-9/20(朝)
テトス書 8/30-9/6 (夜)
ⅠⅡⅢヨハネ書 9/27-11/15(朝)
雅歌・ヨナ書 9/10-11/15(夜)
使徒行伝 1989年11/22-1990年12/19(朝夜)
出エジプト・レビ・民数記 1991年1/16-6/5
ヤコブ書 6/12-9/25
箴言・伝道の書・ヨブ記 10/2-1992年-5/13
ⅠⅡペテロ書・ユダ書 5/27-7/15
ヘブル書 9/2-1993年1/27
ゼカリヤ書・マラキ書 1993年2/3-2/24
ⅠⅡコリント書 3/3-12/15
申命記 12/22-1994年6/15
黙示録 1994年6/22-1995年2/5
マタイ伝 1995年2/15-11/26
ローマ書 12/6-1996年6/12
ホセヤ書 1996年6/19-9/18
イザヤ書(1-39) 9/25-1997年2/9
ミカ書 1997年2/19-3/12
ピリピ書 3/19-5/11
イザヤ書(40-66) 5/18-1998年2/18
ⅠⅡテサロニケ書1998年2/25-5/27
ⅠⅡテモテ書 6/3-9/16
詩篇(コラの子集) 9/26-12/2 (42-49,84-88)
ヨシュア記・士師記 12/9-1999年9/22
サムエル記上下 9/29―2000年10/18
エレミヤ書・哀歌 10/25―2001年5/13
ガラテヤ・コロサイ書 5/29―7/18
創世記 9/2―2002年10/27
②出エジプト・民数・申命記 11/3―2004年7/7
ルツ記・エステル記 7/14―10/20
エズラ・ネヘミヤ記 10/27―2005年1/26
②ハガイ・ゼカリヤ・マラキ書 2/2―4/27
②雅歌・ダニエル・コヘレト 5/11―12/14
列王記 2006年1/11―2006年11/22
エゼキエル書 2006年11/29―2007年6/6
詩編(ダビデ集)2007年6/13―2008年2/20(1-41)
ルカ伝 2/27―2009年4/8
②使徒言行録 4/15―2010年10/20
②黙示録 10/27―2011年11/30
ヨハネ伝 12/4-2013年7/17
②ⅠⅡⅢヨハネ書 9/4-12/4
②ローマ書 12/11-2015年2/25
詩編(ダビデ集) 3/4-10/21(51-72)
②フィレモン書 10/28―12/2
ヨブ記 2016年9/21
②ⅠⅡコリント書 9/28―2018年3/11
主日礼拝の聖書テキスト
ローマ書(1-8) 1989年8/20-1990年3/26
出エジプト記(Ⅰ-15) 4/1-6/24
ローマ書(9-16) 7/1-9/23
創世記 10/14-1991年6/9
ピリピ書 1991年6/16-9/15
マルコ伝(1-10) 9/29-1992年5/24
ヨブ記 1992年6/14-8/2
詩篇(119) 8/9-9/13
マルコ伝(11-16) 9/27-1993年4/11
ルツ記 1993年4/18-5/9
ガラテヤ書 5/16-9/12
サムエル記上下 10/24-1994年3/27
エペソ書 1994年4/3-10/23
ピレモン・コロサイ書 11/6-11/27
ⅠⅡⅢヨハネ書 12/4-1995年4/30
申命記 1995年5/7-8/27
Ⅰコリント書 9/3-1996年7/28
ヨナ書 1996年8/4-9/29
ヨハネ伝 10/6-1998年1/18
黙示録 1998年1/26-8/30
ヤコブ書(1-3) 9/6-11/22
ルカ伝(1-2) 11/29-12/27
ヤコブ書(3-5) 1999年1/3-2/7
ルカ伝(2-24) 2/14-2000年6/4
使徒行伝 6/11―2001年7/8
Ⅱコリント書 7/15-―2002年2/10
ⅠⅡテサロニケ書 2/17―6/30
② ローマ書 7/7―2003年8/3
② エフェソ書 8/17―11/30
マタイ福音書 12/7―2004年7/10
Ⅰペトロ書 7/17―11/20
ヘブライ書 11/27―2006年9/10
ⅠⅡテモテ書 9/24―2007年3/11
Ⅱペトロ書・ユダ書 3/18―6/10
テトス書 6/24―9/2
コヘレトの言葉 9/23―11/25
② コロサイ書 12/2―2008年3/2
② 創世記 3/30―2010年5/16
② 出エジプト記 5/30―2011年8/21
② フィリピ書 9/4―2012年3/25
イザヤ書(1-39章) 4/15-11/25
エレミヤ書・哀歌 20013年1/6-9/22
②ガラテヤ書 10/6―2014年3/30
マルコ伝 4/6-2016年4/10
イザヤ書(40-66章) 4/17-2016年11/21
②ヨハネ伝(1-17章) 12/4―2018年3/25
2020.1.12
■「少年イエスはエルサレムに居残って…」
ルカ2:41-52
主イエスが12歳になられた時どういうことがあったかを、ルカだけが記録しています。両親と一緒にエルサレムの神殿へ行かれた少年イエスは、ご自分が神の御子であると示され、人々は驚きます。
「イエスの両親は、過越しの祭には毎年エルサレムへ上っていた」ので、「イエスが12歳になった時」もそうします(13歳で「バル・ミツバ」→「律法の子」となる儀式の前年)。しかし、祭りが終わって帰る時になっても、「少年イエスはエルサレムに居残って」(自分の意志で!)います。神の御子として行動しようとされるのです。
「両親はそれに気づかなかった」ので、本当に心配して捜し回ります。エルサレムまで引き返して、「イエスが宮の中で教師たちの…話を聞いたり質問したり」しておられるのを「見て驚き」ます。「キリストは、教師というよりも生徒や弟子の務めをされた。」(カルヴァン) マリヤは「おとう様もわたしも心配して…捜していたのです」と責めます(→ヨハネ2章「カナの婚宴」の時の母マリヤ)。
主イエスは、「わたしが自分の父の家にいるはずのこと」を知って欲しいのです。「自分の父」とはヨセフではなく天の父なる神であり、「家にいるはず」とは「(家の)仕事に関わるのが当然」という意味です。ヨセフの大工仕事を手伝うように、父なる神の救いの業を手伝うのが、神の御子の義務なのです。そう宣言した上で、「イエスは両親と一緒にナザレに下って…お仕えに」なります。
母マリヤが「みな心に留めていた」この出来事は、主イエスの生涯のターニングポイントでした。「人となりたる活ける神」(讃121番)である主を指差して、「この人を見よ」と歌う者は幸いです。
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