2020.1.5



■「混じりけのない霊の乳を

        Ⅰペテロ1222:3


  昨年、主日礼拝や祈祷会で教えられた中から、今年の「年間聖句」を「霊の乳を慕い求めなさい」としました。3つの聖書個所から、神の言葉は優しくて温かいものだと教えられましょう。

 聖書を熱心に研究している律法学者たちが、安息日に病人を癒したことについて主イエスを批判したのに対して、主は「この聖書は、わたしについてあかしするものである」(ヨハネ5:39)と言われます。

 自分勝手な解釈をして、救主を批判する者になったのです。聖書はもっと単純に、イエスを救主と信じさせるものです。

ソドムの罪を裁くために来られた主なる神が、共に歩いているアブラハムについて、「わたしのしようとする事をアブラハムに隠してよいであろうか」(創世記18:17)と言われるほど、人間と近くなってくださいます。ご自身の心の思いを伝えようとされる神です。

 使徒ペテロが、エルサレムから追放されて小アジア地方で伝道した時に生まれた諸教会のクリスチャンたちに、「バビロン」と呼ばれたローマから手紙を書きます。ネロ皇帝による迫害におびえる彼らに対して、神の子として生まれたのは、変わることのない神の言葉の力によるのだから大丈夫だと励まします(→「草や花」)。そして、「あらゆる悪意…悪口」のような大人の不純な気持を捨てて、「今生まれたばかりの乳飲み子のように…霊の乳を慕い求めなさい」(Ⅰペテロ2:2)と勧めるのです。その結果、教会の全員が「おい育ち、(成長して)救いに入」るようにと願います(「同じ釜の飯を食う」!)。

 子どものようになって、「生命の御言葉(複数 Words of Life」 (讃501番)に教えられながら、歩む者は幸いです。


2020.1.12


■「少年イエスはエルサレムに居残って

           ルカ24152

  主イエスが12歳になられた時どういうことがあったかを、ルカけが記録しています。両親と一緒にエルサレムの神殿へ行かれた少イエスは、ご自分が神の御子であると示され、人々は驚きます。 「イエスの両親は、過越しの祭には毎年エルサレムへ上っていた」ので、「イエスが12歳になった時」もそうします(13歳で「バル・ミツバ」→「律法の子」となる儀式の前年)。しかし、祭りが終わって帰る時になっても、「少年イエスはエルサレムに居残って」(自分の意志で!)います。神の御子として行動しようとされるのです。

「両親はそれに気づかなかった」ので、本当に心配して」捜し回ります。エルサレムまで引き返して、「イエスが宮の中で教師たちの…話を聞いたり質問したり」しておられるのを「見て驚き」ます。「キリストは、教師というよりも生徒や弟子の務めをされた。」(カルヴァン) マリヤは「おとう様もわたしも心配して…捜していたのです」と責めます(→ヨハネ2章「カナの婚宴」の時の母マリヤ)。

 主イエスは、「わたしが自分の父の家にいるはずのこと」を知って欲しいのです。「自分の父」とはヨセフではなく天の父なる神であり、「家にいるはず」とは「(家の)仕事に関わるのが当然」という意味です。ヨセフの大工仕事を手伝うように、父なる神の救いの業を手伝うのが、神の御子の義務なのです。そう宣言した上で、「イエスは両親と一緒にナザレに下って…お仕えに」なります。

 母マリヤが「みな心に留めていた」この出来事は、主イエスの生涯のターニングポイントでした。「人となりたる活ける神」(讃121番)である主を指差して、「この人を見よ」と歌う者は幸いです。

 




2020.1.19


■「悪魔はあらゆる試みをしつくして

          ルカ414


 ヨルダン川で洗礼を受けて伝道活動を開始する前に、主イエスは荒野で(→エリコの「誘惑の山」)、悪魔の誘惑(入学試験!)を受けられますが、しつこい誘惑にも聖書のことばで勝利されます。

「年およそ30歳」の主は「聖霊に満ちて」元気ですが、「荒野を40日のあいだ御霊にひきまわされて、悪魔(→エデンの園の蛇)の試みにあわれ」ます。空腹になられた主に、「この石に、パンになれと命じて」食べるようにそそのかします。しかし主は、「人はパンだけで生きるものではない」(申命記8:3)と、マナを与えてくださった神を信頼することの大切さを、モーセの言葉を借りて強調されます。

 「キリストは聖句を楯として用いられる。」(カルヴァン)

 次に悪魔は「世界のすべての国々を見せて」、「もしあなたがわたしの前にひざまずくなら…全部あなたのものにしてあげましょう」と言います(権力の悪魔化!)。しかし主は、「神を拝し、ただ神にのみ仕えよ」(申命記6:13)と、神々に仕えることを拒否されます。

最後に悪魔は主を、「宮(神殿)の頂上に立たせて」、大勢の群衆の前で飛びおりるのを天使たちが支えるというパフォーマンスをして、人気を得るようにそそのかします(詩91篇を引用して!)。しかし主は、「主なる神を試みてはならない」(申命記6:16)と、イスラエルの民が40年の荒野の旅の間にたびたび不信仰になったような事はしない、と断言されます(コツコツと伝道することが大切!)。

 「悪魔はあらゆる試みをしつくして」退散します。神の御子は聖書のことばで戦われます(「愛唱聖句」の力!)。「イマヌエル(神が共におられる)の君」(讃161番)の後に従って戦うべきです。



2020.1.26



■「貧しい人々に福音を

          ルカ430


  主イエスはガリラヤ地方で伝道を開始されます。その初めの頃、主は郷里のナザレで伝道されますが、人々の反対に会われます。それでも救いの福音を宣べ伝えたいのです(家族・郷里伝道!)。

ルカは、主イエスが「お育ちになったナザレに行き」、会堂(シナゴーグ)の礼拝で説教された様子を伝えています。聖書の巻物を開いて、バビロン捕囚から帰った民が苦しんでいるのに対して、預言者が「貧しい人々…囚人…打ちひしがれている者…めぐみの年」(イザヤ61章)を告げた箇所から説教されます。「キリストは、はっきり自覚してこの節を選ばれた。」(カルヴァン) 親しい人たちに福音を伝えたいという熱い思いです(→使徒16章「あなたの家族も」)。

 「会堂にいるみんなの者の目が注がれる」(説教者の喜び!)中で主は「この聖句は…この日に成就した」と、救いがすでに来ていると語られます。「その口から出て来るめぐみの言葉に感嘆した」人々だけでなく、「この人は(貧しい)ヨセフの子ではないか」と批判的な人々もいます。「医者よ、自分自身をいやせ」(紺屋の白袴!)と、癒しの奇跡を郷里でも見せよと迫る人々に、主は失望されます。

最後に主は、「預言者は、自分の郷里では歓迎されない」ということわざを引用して、「エリヤとザレプタのやもめ」(列王上17章)と「エリシャとシリアのナアマン」(列王下5章)のエピソードのように、ご自分も郷里を離れて伝道すると宣言されます。町の外へ追い出された主は(→「突き落しの山」)、無理には留まられません

 「イエスの兄弟たち」(使徒1:14)が後に信仰者になったと、ルカは記します。主は「天なる喜び」(讃352番)を与えたいのです。