2020.9.6

 

■「めぐまれているのは

          ルカ1127


 主イエスを歓迎する人や批判する人たちがやって来ます。主は彼らが表面的なことばかり見ないで、主の言葉を聞いて信じ、神の国の中で生きるようになって欲しいのです(信仰生活の開始!)。

主の働きや言葉を見聞きしていたある女性が、「あなたを宿した胎、あなたが吸われた乳房は、なんとめぐまれていることでしょう」と、母マリヤを羨ましがります(子どもの七光り!)。しかし主は「神の言を聞いてそれを守る人」の方が幸いなのだ、と言われます。

「天からのしるし」(16節)を求める人たちに対して主は、「この(今の)時代は邪悪な時代である」と言われます。ずっと昔の話ですが、「ニネベの人々に対してヨナがしるしとなった」ように(→ヨナ3章)、「南(シバ)の女王が…ソロモンの知恵を聞くために」はるばるやって来たように(→列王上1章)、外国人でも聞いて悔い改めたのです。主は今、「ヨナにまさる者」、「ソロモンにまさる者」として来ておられます。「ニネベの人々に対してヨナがしるしとなったように、人の子(主イエス)もこの時代に対してしるしとなる」と言われます(外国から来て伝道する宣教師の姿のように!)。

 主は「あかり」(真の光)として「燭台の上」にあって人々を照らします。同じように「あなたの目は、からだのあかり」なのですから、「あなたの目が澄んでおれば、全身も明るい」でしょう。「あなたの内なる光が暗くならないように」すべきです(御言葉を聞く教会!)。

 「幸いなのは…」(新共同訳)と、人生の最大の幸福は「神の霊によって生まれ変わること」(カルヴァン)だと言われます。主をお迎えして、「主の民」(讃130番)となって従う者は幸いです。






 


2020.9.13




■「あなた方パリサイ人は、わざわいである

         ルカ113754


 旅の途中で、主イエスはあるパリサイ人の家に食事に招かれます。手を洗い清めることを巡って論争になりますが、主はパリサイ人や律法学者が傲慢にならないで、神のもとへ帰って来て欲しいのです。

主が「食前にまず洗うことをなさらなかった」というのは、清めの儀式のことです(→ヨハネ2章「石の水がめ」)。パリサイ人(分離者)たちは熱心ですが、「杯や盆の外側をきよめるが…内側は貪欲と邪悪とで満ちている」ことが問題です。「外側を造った方(神)は…内側も造られた」のですから、「内側にあるものをきよめ(掃除す)る」べきです(サムエル上16章「人は外…主は心を見る」)。

 彼らが「わざわい」なのは、「十分の一献品」(→レビ27:30)を忠実に守りつつ「(人に対する)義と神に対する愛」とをなおざりにする事、「会堂(シナゴーグ)の上席や広場での敬礼」を好む事、「人目につかない墓」のように人々の心を汚染する事、等の故です。

 律法学者が「わざわい」なのは、「(律法の解釈で)負い切れない重荷を人に負わせる」事です。「真に神を畏れる者は…自分自身の弱を知って…弱い人たちを許す」(カルヴァン)はずです。彼らは「(殺された)預言者たちの碑」を建てて残念がりますが、彼ら自身が「預者と使徒とを…殺したり、迫害したりする」と主は予言されます(親に似る子どもたち!)。「アベルの血(→創世4章)からザカリヤの血(→歴代下24章)」に至る血の責任があります。彼らは「(天国にる)知識のかぎ」を取り上げます(→ヨハネ5章「聖書」)。

 主は「わざわいだ」(ウーアイ!)と彼らのために悲しまれます。彼らもまた「さまよう人々」(讃239番)として招かれています。





2020.9.20



■「五羽のすずめは二アサリオンで…」

         ルカ12:1-12


  パリサイ人たちとの衝突が多くなる中で、主イエスは弟子たちに語りかけられます。主に従うのは大変ですが、父なる神が守ってくださるので、安心して主の証人(語る人)になって欲しいのです。

群衆が「互に踏み合うほどに群がって」来ますが、主は「まず弟子たちに語りはじめ」られます。彼らは「パリサイ人のパン種(酵母)彼らの偽善(仮面劇の役者→表と裏を使い分ける)に」影響されてはなりません。「隠れているもの」も必ず「知られる」のですから、「密室で耳にささやいた」ことも「屋根の上で言い広められる」こと覚悟して、いつも堂々と語るべきです(牧師の説教!)。

 主は弟子たちを「わたしの友」と呼び、「からだを殺しても…それ以上なにもできない者ども」ではなく、「殺したあとで、更に地獄に投げ込む権威のある方(神)」を恐れよ、と言われます(→9:24)。

 「五羽のすずめ」や「あなたがたの髪の毛」を忘れられない父なる神がおられます。「神の子供たちは大きい権利を所有している」(カルヴァン)ので、強くなれるのです(→ローマ8:28)。

主は弟子たちに「人の前でわたしを受けいれる(ホモロゲオー「告白する」)者」になって欲しいのです。これからは「会堂や役人や高官」の前で弁明させられるでしょうが、「言うべきことは、聖霊がその時に教えてくださる」ので心配ありません。礼拝の中で、共に声を合わせて「信仰告白」を称える時、立派に主の証人です。

 普通は二羽で一アサリオン(銅貨一枚)ですが(→マタイ10:29)、五羽だと一羽が「おまけ」でしょう。その一羽さえ大切にしてくださるので、「主われを愛す」(讃461番))と賛美をしつつ生きるのです。













2020.9.27


■「恐れるな、小さい群れよ…」

         ルカ12:22-34


 「愚かな金持」(12:13-21)の話のあと、主イエスは改めて「弟子たち」に語られます。これからの伝道生涯の中で生活の困難に直面することがあっても、父なる神が助けてくださるから大丈夫です。

「何を食べようか…と思いわずらうな」と言われます(→マタイ6章「空の鳥・野の花」)。「からす…納屋もなく倉もない…神は彼らを養っていて下さる…野の花…紡ぎもせず、織りもしない…神はこのように装って下さる」ことを考えれば、安心して良いのです。

 従って、「何を食べ、何を飲もうかと、あくせくする(求める)な、また気を使う(気をもむ)な」と、「この世の異邦人」のようにならないで、「ただ御国を求めなさい」と教えられます(→マタイ6章「神の国と神の義」)。「恐れるな、小さい群よ、御国を下さることは、父のみこころなのである」と言って励まされます。「こう呼ぶことで、主は、彼らが神の目から見て価値が低いものだと思うべきではない、とされる。」(カルヴァン) 小さくても可愛いのです!

 生活が困難でも、「自分の持ち物を売って、施しなさい」と命じられます(→使徒20:35「受けるよりは与える方が…」)。それは「自分のために古びることのない財布をつくり…天に…宝をたくわえ」ることです。「あなたがたの宝のある所には、心もある」のです。天に宝を貯えて、おみやげを持って帰りたいものです(→ルカ19章「ミナの話」「よい僕よ…あなたは小さい事に忠実であった」)。

 「小さな群よ…父は喜んで神の国をくださる」(新共同訳)のですから、安心して生きることが出来ます。教会は小さくても、神の目には「さかえに満ちたる神の都」(讃194番)なのです。