2022.4.3


父よ、彼らをお赦しください…」

  ルカ232643


 死刑の判決を受けて主イエスはゴルゴタ(「されこうべ」)という場所で十字架にかけられます(→「聖墳墓教会」→「ゴードンの丘」)。主は十字架で苦しみつつも、他の人たちに優しい心づかいをされます。
 ゴルゴタへ向かう途中で倒れられた主の十字架を「シモンというキレネ人」が無理に負わされます(→9章「自分の十字架を負って従え」→マルコ15章「アレクサンドロとルフォスとの父」)。「嘆き悲しむ女たち」を見て主は「自分と…子どもたちのために泣け」と、来るべきエルサレムの滅亡の前に悔い改めるべきことを教えられます(「生木と枯れ木」!)。

 十字架にかけられて苦しみつつ、主は「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」と、理由にならない理由を言って執り成されますが、これはルカだけが記録した言葉です(→使徒7章「ステファノの祈り」)。「キリストは復讐から手を引くだけでなく、父なる神に自分を苦しめる者たちの救いを申し出られる。」(カルヴァン)

 「はりつけにされた犯罪人の一人」がイエスを罵っているのに対して、「もう一人の方がたしなめた」というのもルカだけの記録です。彼は「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください」と言います(→文語訳「我を憶えたまへ」)。主は「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と約束されます(→文語訳「われ誠に汝に告ぐ、今日なんじは我と偕にパラダイスに在るべし」)。この犯罪人は主の言葉を聞いて「この御方が救い主だ」と信じたのです

 主は父なる神に執り成されます(→「牛小屋に入れられた息子を執り成す母親」)。「十字架のもと(下)」(讃262番)から上におられる主を見上げつつ、「わがため悩める神の御子」と歌う者は幸いです。







2022.4.10


よ、私の霊を御手に委ねます…」

  ルカ234456


 金曜日の午後12時から3時頃まで、主イエスは十字架の上で苦しんで息を引き取られます。主は私たちの罪の身代わりとして喜んで死んでくださり、人々の手で墓に葬られます(→「聖墳墓教会」→「園の墓」)。

 「昼の十二時頃」から「全地は暗くなり…太陽は光を失って」しまいます(→「シロッコ風」)。罪人として父なる神から隔てられた主の心の闇を象徴しています(→マルコ15章「わが神…なぜ私をお見捨てに…」)。「神殿の垂れ幕が…裂けた」のも象徴的です(→ヘブライ10章「ご自分の肉を通って」)。しかし最後に主は「父よ、私の霊を御手に委ねます」と言って、父なる神の許に安らわれます(→詩31篇「就寝の祈り」)。

 十字架に直面した人々は心を打たれます。「(ローマ軍の)百人隊長は…この人は正しい人だった」と言い(→マルコ15章「神の子だった」)、「群衆も皆…胸を打ちながら帰って」行きます(→18章「祈る徴税人」)。「イエスを知っていたすべての人たちと…慕って来た女たち」も同様です(→ガラテヤ3章「十字架につけられたイエス・キリストが…目の前に)。

 アリマタヤ出身の議員ヨセフは「善良で正しい人で…神の国を待ち望んでいた」のですが勇気を奮って「ピラトのところへ行き…イエスの遺体を降ろして…岩を掘った墓の中に…納め」ます。「ガリラヤから来た女たちは…家に帰って、香料と香油を準備」します。主のために何かせずにおれないのです(→讃332番「われ何をなして主に報いし?」)。

 主にならって、ステファノは「主イエスよ、私の霊をお受けください」と言って死んで行きます。「誰でも死に向かう時にはこの例に倣うべきである。」(カルヴァン) 「功無き(何の弁解できない)我を…イエス招き給う」(讃271番)といつつ、主の許に来るは幸いです。   




                  







2022.4.17

あの方は、ここにはおられない…」

  ルカ212


 主イエスは日曜日の朝早く復活して墓から出て行かれます。復活のニュースは女性たちによって力強く伝えられます。「キリストは男たちから使徒の務めを取り上げて、一時的に女たちに与えられる。」(カルヴァン)

 「女たちは…準備をしておいた香料を携えて墓に行」くほど用意周到ですが、「石が墓から転がしてある」のに驚きます(→墓石を軍手で動かす必要)。「イエスの遺体が見当たらない…ため途方に暮れて」しまう彼女たちです(→東日本大震災の時の経験→小さな慰めでなく大きな慰め)。

 「輝く衣を着た二人」(天使)が「なぜ生きておられる方(主)を死者の中に捜すのか」と言い、「あの方は、ここにはおられない」と教え、主が「ガリラヤにおられた頃…三日目に復活する」と言われたことを思い出させます(→9章「弟子たちへの教え」)。「女たちはイエスの言葉を思いだし」て元気づけられます(「門前の小僧習わぬ経を読む」!)。

 彼女たちは「墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせ」ます。「マグダラのマリア」(→ガリラヤ湖の漁師町)、「ヨハナ」(→9章「クザの妻」)、「ヤコブの母マリア」や「ほかの女たち」が「これらのことを使徒(となるべき者)たちに話し」ますが、彼らは「この話がまるで馬鹿げたこと(ナンセンス)に思われて…信じなかった」のです。それでも「ペテロは立ち上がって墓へ走り…この出来事に驚きながら家に帰った」というのは男の弟子たちの名誉回復のためでしょう(→使徒2章「神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました」)。

 「(主が)ここにはおられない」というのは、死者ではなく生きておられる主を示します(→プロテスタントの十字架)。ダマスコのヨハネと共に「地よ声高く告げ知らせよ」(讃154番)と賛美する者は幸いです。






2022.4.24


苦しみを受けて、栄光に入る…」

  ルカ21327


 復活の出来事があった日曜日の午後の話です。エルサレムから帰って行く二人の弟子に主イエスが出会われます(→マルコ16章の付録)。主は、私たちが聖書によって正しくご自分のことを知って欲しいのです。

 「二人の弟子」の一人は「クレオパ」(→ヨハネ19章「クロパの妻マリア」)とあり、もう一人はその妻だったのでしょう。彼らは夢破れて「エルサレムから六十スタディオン(約11㎞)離れたエマオという村」へ帰る途中です。二人は夢中で「一切の出来事」を「話し合い論じ合って」いて「イエスご自身が近づいて…一緒に歩いて」下さっても「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からない」有様です(→マタイ28:20)。

 主が「(ピンポンのように)やり取りしているその話はなんのことですか」と、知らないふりをして尋ねられると、二人は口々に語りします。

「ナザレのイエスのこと…十字架にかけて…三日目になります」と失望を語り、「遺体が見当たらない…天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げた」と、混乱した気持ちをぶつけます(主のカウンセリング!)。

 主は「ああ、愚かで…信じられない者たち」と嘆きつつも、「メシアは…苦しみを受けて、栄光に入る」ことについて、「モーセとすべての預言者から始めて…ご自分について書いてあることを解き明かされ」ます(説教者イエス!)。「(旧約の)祭司職や犠牲の中に、私たちはキリストを見出さなくてはならない。」(カルヴァン) 彼らは主の話を聞いて「私たちの心は燃えた」という経験をします(旧新約全体から説教する必要!)。

 「苦難と栄光の主」が私たちの救い主です。そして、それは今も聖書の説き明かし(説教)によって伝えられます。「いのちの御言葉」(讃501番)である聖書を「妙なるかな…奇すしきかな」と歌う者は幸いです。