2019.3.3



■「目はからだのあかりである

            マタイ6:22-24


 主イエスは、私たちがもっと天のこと、あるいはそこにおられる父なる神を、目で見るようにして知り(細部まで詳しく!)、しっかりした信仰を持って欲しいと語られます(「百聞は一見に如かず」!)。

 目が体の中で大切な働きをするように、「あなたの(信仰の)目が澄んでおれば、全身(生活)も明るいだろう」、と主は言われます。誰でも信仰が好調な時には、生活も順調です(洗礼を受けた時!)。

 もちろんまだ「鏡に映して見るようにおぼろげに見ている」(Ⅰコリント13:12)としても、だんだんとはっきり見えて来るのです。

 「新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3:3)のですが、主イエスのもとに来た私たちは、幸いにも「神を見る」(5:8)者とされました。しかし、信仰が不調(スランプ)になると、「あなたの目が悪ければ、全身も暗い」(老眼や乱視!)ようになります(→詩119篇の詩人「わが魂はちりについています」)。それでも「苦しみにあったことは…良い事」と、立ち上がります。

 信仰生活で最も警戒すべきは、「ふたりの主人に(奴隷として)兼ね仕える」ことです。「一方を憎んで他方を愛し…」というようになるからです。「神と冨(マモン→福の神)とに兼ね仕えることはできない」のです(→ヨハネ12章「財布の中身をごまかしていたユダ」)。

 「貪欲は私たちを常に悪魔の奴隷とする。」(カルヴァン)

 私たちの目がしっかりと天を見ていれば生涯が明るいのです(→マタイ5:15「家の中を照らすあかり」)。日本人牧師が「主を仰ぎ見れば…我ならぬ我の現れ来て…」(讃355番)と歌ったように、私たちも「尽きぬ幸(さち)は…湧きて流る」と歌って生きるのです。





2019.3.10

■「思いわずらうな

            マタイ6:25-30

 主イエスは弟子たちに、ガリラヤ湖の周辺の鳥や花を指差しながら語られます。天の父なる神にとって、私たちは鳥や花より大切なのだから、生活の必要品について過度に心配しなくてよいのです。

 私たちが父なる神に心の目を向けているならば、「何を食べようか…何を着ようか」と「自分の命のこと…からだのことで思いわずらう必要はありません。何故なら「命は食物に…からだは着物にまさる」からです。生活の必要品のために心遣いするのが悪いのではなく、過度になるのが問題です(→ルカ10章「思いわずらうマルタ」)。

 食物については、「空の鳥を見るがよい」と指差して言われます。「天の父は彼らを養っていてくださる」のですし(→ヨブ38:41「からすの子」)、私たちは「はるかにすぐれた者」ですから、思いわずらう必要はないのです。「自分の寿命」も主の御手の中にあります。鳥は「まく…刈る…取り入れること」もしないのですが、「この言葉によって、キリストは私たちに不精や怠惰を勧めておられるのではない」(カルヴァン)のです(→Ⅰテサロニケ4:11「働きなさい」)。

 着物については、「働きも…紡ぎもしない」野の花ですが、「栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」と言われます(成人式の晴れ着!)。「きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草」でさえそうされるのですから、まして私たちには、「それ以上によくしてくださる」と信じるべきです(→マタイ8:26「信仰の薄い者たちよ」)。

 主イエスご自身、私たちと同じ弱さを経験されたので(→ヘブル4:15)、「思いわずらわなくていいんだよ」と言われます。「我らをあがない、生命を給う」(讃354番)羊飼いなる主を賛美しましょう。





2019.3.17



■「まず神の国と義とを求めなさい

            マタイ6:31-34

 生活の必要品について「思いわずらうな」と言われる主イエスは、そのために私たちがどうすればよいのかを語られます。何よりもクリスチャンらしく生きることが大切です(「急がば回れ」!)。

 私たちは、「何を食べようか…何を着ようか」ということと無関係には生きられません。しかし、「異邦人が切に求めている」のとは違うはずです(→5:47、6:7)。「あなたがたの天の父は…これらのものが…必要であることをご存じである」と、配慮してくださる方を知る者となったからです(ディック宣教師の山陰伝道!)。

 クリスチャンらしく生きるとは、「まず神の国と神の義とを」求めることです。「御国がきますように」(46:10)と祈りつつ、「天に、宝をたくわえる」(6:20)ような生き方をすることです。うすれば、「これらのもの(生活の必要品)は、すべて添えて与えられる」でしょう(→列王上3章「ソロモン王の祈りと神の答え」)。「神の国を第1位にする者は…心配が節度を越えない。」(カルヴァン)

 クリスチャンは、「あすのことを思いわずらう」ことをしません。「あすのことは、あす自身が思いわずらう」とユーモラスに言われますが、実際には主なる神が「のがれる道も備えていてくださる」(Ⅰコリント10:13)と信じるからです。そして、「一日の苦労は、その一日だけで十分」と、その日を精一杯に生きるのです(→出エジプト16章「一日分だけ集めるように命じられた天からのマナ」)。

 大切なのは、「あなたがたの天の父」を知って、その御国の民として生きることです(→ルカ12:31)。「さまよう羊」であった私たちが、「われは今日より」(讃247番)と歌って立ち上がります。




2019.3.24



■「人をさばくな犬にやるな

            マタイ71-6

 「山上の説教」の最後(第7章)で主イエスは、世の中へ出て行く「教え子たち」に諸注意を語られます(→「讃美歌」の「その他」)。信仰の仲間については、どうあるべきでしょうか。

 「人をさばくな」とは、冷たい批判心が問題です。それは「すべての人が生まれつき持っている病気」(カルヴァン)であって、そうすることによって「自分もさばかれ」ることになり、冷たい人間関係がエスカレートします。その反対に、暖かい言葉をかければ、「自分にも量り与えられる」でしょう(→ルカ6:38)。主ご自身が、「わたしもあなたを罰しない」(ヨハネ8:11)、と暖かく語られます。

 「兄弟の目にあるちり(のこくず)」のような小さな欠点を見て、「自分の目にある梁」のような大きな欠点に気付かない人が多いのです(大工だった主!)。そういう人に向かって主は、「偽善者よ、まず、自分の目から梁を取りのけるがよい」、ときびしく言われます。

 「聖なるもの…真珠」とは、「キリストは救いの教えを呼んでおられる」(カルヴァン)と考えてよいでしょう(→13:45)。「犬にやるな…豚に投げてやるな」と主が言われるのは、福音に敵対する者のことでしょう。伝道旅行に弟子たちを派遣する時、「足のちりを払い落としなさい」(10:14)と主は言われましたが、そういう人たちのことは主が引き受けてくださるのです(→使徒9章「パウロの回心」)。

 信仰者が世の中に出て行く時、「へびのように賢く、はとのように素直」(10:16)であるべきです。主が建ててくださった教会に召された者たちは、「四方(よも)の国より選ばるれど、望みも一つ業も一つ」(讃191番)と歌いつつ、暖かく広い共同体を作るのです。




2019.3.31



■「求めよ人々にもせよ

            マタイ77-12

 世の中へ出て行く弟子たちへの諸注意として、主イエスは父なる神との結びつきの大切さを教えられます(タテの関係)。また、人と人との結びつきも同じくらい大切です(ヨコの関係)。

 神との結びつきを強めるために、主は「求めよ…捜せ…門をたたけ」と、私たちが遠慮せずに祈るように、インパクトの強い言い方で背中を押されます(祈る者距離感!)。そうすれば「与えられる…見いだす…あけてもらえる」からです。待っているだけでは何も始まらないのです(→詩119:145「わたしは…呼ばわり(カーラー)ます」)。

 神は冷たい方ではありませんが、祈ってもすぐに応えてくださらない時があります。しかし、「神が私たちのことを何も考慮しておられないとは考えないように」(カルヴァン)しましょう。「自分の子がパンを…魚を…卵を(ルカ11:12)求める」のに「石を…へびを…さそりを」与える親はいません(間違えて求める私たち!)。天の父は「求めて来る者に良いもの」を下さる方です(→エペソ3章「あらゆるものの源なる父…求めまた思うところ…はるかに越えて…」)。

 人との結びつきのためには、「何事でも人々からして欲しいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ」が、「律法であり預言者」だと言われます(→5:7「廃するためではなく、成就するため」)。単なる「黄金律」(ゴールデン・ルール)ではなく、主が身をもって示された「新しいいましめ」(ヨハネ13:34)です。

 神に向かって祈り、人に親切にすることの両方が出来たら、私たちは「鬼に金棒」(!)でしょう。「天に行く馳場(はせば)」(讃370番)を走って主に再会するのです(「蛍の光」のメロディー!)。