2019.1.6


星のように

           ピリピ1218

 昨年、主日礼拝や祈祷会で教えられた中から、今年の「年間聖句」を「星のように…」としました。それと関連して、3つの聖書箇所から、主なる神が私たちに願っておられることを考えましょう。

 先ず、「家の中のあかり」(マタイ5:13-16)でです。「山上の説教」の中で、主イエスは弟子たちの心構えとして、「地の塩、世の光」となって欲しいと言われます。小さなあかり(ランプ)でも、「家の中のすべてのものを照ら」すことが出来ます(教会の夜間照明!)。

 次に、「山の上の夕日」(詩篇121:1-8)です。祈祷会で「都もうでの歌」を学ぶ中で、地方から巡礼団を組んでエルサレム神殿に詣でる男たちが、都の近くの荒々しい山の麓に辿り着いた時に歌ったものだ、と教えられました。「都のある方角の山々が、夕暮れの空に黒いシルエットを描くのを仰ぎ見ながら歌いました。」(小畑進)。若者が「わが助けは、どこから…」と不安な気持で歌うと、ベテランの男たちが「主はあなたを守る者」と応じます。彼らの顔には神から来る光が反射しています(→「皆のお顔もまっかっか」)。「われらの助けは…主のみ名にある」(詩124:8「礼拝招詞」)と称えます。

 最後に、「空にある星」(ピリピ2:12-18)です。パウロは、私たちが「曲った邪悪な時代」の中でも、心ある人たちのために「星のようにこの世に輝いている」者であって欲しいと語ります。「ろうばいさせられない」教会です(2025年の大阪万博でも!)。

 大切なのは、「いのちの言葉を固く持って」いることです(電池がなければ光らない!)。「生命の御言葉、たえなるかな(beautiful)…くすしきかな(wonderful)」(讃501番)と歌います。





2019.1.13

施しをする時には

         マタイ6

「山上の説教」の続きで、主イエスは、信仰生活の

実際的な諸注意を語られます。「施し」については、

私たちが弱い立場の人々に助けの手を差し伸べて欲

しいのです(→申命記15章「手を開いて」)。

 基本的な身構えとして、「自分の義(善い行い)

を、見られるために(劇場のように!)…行わない

ように」気を付けるべきです(→5:46完全な者」

は目標)。ありのまま(シンプル)で良いのです。

 「父からの報い」は誰に対しても公平です(→20

:8「賃金」)。

 「施し」は、今ではあまり評判が良くない言葉で

す(百万円のお年玉!)。しかし主は、「貧しい人

たちはいつもあなたがたと共にいる」(ヨハネ12:

8)と言われます。大切なのは、「偽善者(『仮面

の下で話す者』)にならない事です(→23:27

「白く塗った墓」)。彼らは「人にほめられるた

めに…自分の前でラッパを吹きならす」ような騒々

しいことをします(→マルコ12:41「真鍮のさいせ

ん箱」)。静かに「心を込めてあいさつする」(讃

Ⅱ26番)だけで良いのです。

 施す時の心得として、「右の手のしていることを

左の手に知らせるな」と主は言われます。「神のみ

を私たちの唯一の証人とすることで満足すべきである。」(カルヴァン) そうすれば自分のしたことは

忘れることが出来ます(→ルカ18章の「自分の善行

を忘れないパリサイ人」と10章の「助けたことを忘

れるサマリヤ人」)。

 主イエスが再臨される時、自分のした施しを忘れ

ている者たちに、「これらの最も小さい者のひとり

にしたのは…わたしにしたのである」(マタイ25:40)と、「ちゃんと覚えているよ」、と言ってくだ

さいます。私たちは、「まことなる御神」に信頼す

る者として、「この世の旅路を勇ましく進まん」

(讃304番)と歌いましょう。

 





2019.1.20


祈る時には

             マタイ6

 信仰生活の諸注意として、祈りが取り上げられます。祈りは神との対話であり、神からの語りかけに私たちが応答します(主日礼拝!)。主は、私たちが喜んで、良い祈りをする者になって欲しいのです。

 公けの祈りも大切にすべきです(→18:20「ふたりまたは三人が」)。個人的に祈る場合、「偽善者たちのように…人に見せようとして」はなく、「自分のへやにはいり…(自分の)戸を閉じて…あなたの父に」祈るべきです(神と一対一になって→讃美歌307番と319番「わずらわしき世をしばし逃れ」と歌ったブラウン宣教師の母)。

 祈りの言葉は、必ずしも口に出さなくても良いのです(→サムエル上1章「ハンナの無言の必死な祈り」)。「言葉かずを多く」して、「くどくど(バッタロギア)祈る」のは、真の神を知らない「異邦人」のすることです(→列王上18章「バアルの預言者たちの祈り」)。「信仰深い人々は天にまで届かせるために、その思いを矢のごとく放つのである。」(カルヴァン)

 祈りは単に私たちの必要を神に訴えるだけではありません。祈りには、「賛美、感謝、懺悔、執り成し、願い」と、多くの要素があります。私たちが訴える切実な祈りを、神は聞いてくださいますが、「求ない先から、あなたがたに必要なものはご存じ」なのです。「求めてくる者に良いものを下さる」(7:11)神を信じて、子どものように祈ればよいのです(父なる神との絆を確かめるために!)。

 祈りの成長は、私たちが幼児のようになることです(朝祷会のベテラン信仰者!)。私たちの祈りの生活(sweet hour of prayer)は、「ふるさと眺めて昇り行く日」(讃310番)までの期間限定なのです。





2019.1.27


■「天にいますわれらの父よ…」

          マタイ610

 「主の祈り」は「主が教えられた祈り」(→ルカ11:1)であり、「祈られる方(対象)が祈る人(主体)として教えてくださった祈り」(永井春子)です。前半の3つの祈りは神のためです(→十戒)。

 父なる神は私たちの祈りを待っておられます(→ルカ15章「息子の帰りを待つ父」)。親しく「われらの父よ」と呼びかけ(→ヨハネ16:24「わたしの名によって」)、「天にいます」大いなる神が近くにいてくださるので、安心して祈るのです。第1の祈りは、「御名があがめられ(聖とされ)ますように」と、神にふさわしい栄誉が帰せられることを願います。「その反対は、神の名の神聖さを汚すことである。」(カルヴァン)それが神の子とされた私たちにとって他人事(ひとごと)ではなくなるのです(父親の名誉回復を願う子供たち!)。

 第2の祈りは、「御国(神の王国)が来ますように」と、神の支配がますます祝福に満ちたものになることを願います。私たちはその王国の民とされています(運命共同体!)。さらに「この御国の福音は…全世界に宣べ伝えられ…それから最後が来る」(マタイ24:14)こ

とを祈りつつ待つのです(シンプソンの「再臨の主」待望!)。

 第3の祈りは、「みこころ(神の意志)が…地にも行われますように」と、きめ細かい願いです(→ルカ11章では省略)。「天に行われるように」とは、天使のようになることですが、主ご自身も、「みこころのままに」(マタイ26:39)と言うまでには、苦しまれました。

 「天にまします我らの父よ」と呼ぶ時、私たちは神の家族の一員になっています。神は「み空のかなた」の遠くではなく、「み袖に触れなばたちまち医えん」(讃300番)と歌うほどに近くおられます。