2022.2.6


さあ、べテルに上ろう…」

    創世記329


 35章が「ヤコブ物語」の締めくくりになります。シェケムではすっかり弱ってしまったヤコブですが、主なる神は信仰の弱った者でも励まして、再び立ち上がらせてくださる御方です。

 主は「さあ、べテルに上り…祭壇を造りなさい」と語りかけられます。「ヤコブが快復するための特効薬は神の語り掛けであった。」(カルヴァン) ヤコブは生き生きとして「さあ、べテルに上ろう…祭壇を造ろう」と呼びかけ、神々の像を捨ててから出発します。心配していた「周囲の町」からの襲撃もなく(主の守り!)、無事に着いて礼拝します。「リベカの乳母であったデボラ」(→24章)は幸せな死を迎えます。

 べテルで「神は再び彼に現れ」(28章)て「イスラエルがあなたの名となる」(32章)とされ、「あなたから王たちが出る…この土地を与える」17章)とアブラハム以来の約束をし、「離れて行かれ」ます。ヤコブは「石の柱を立てて…べテルと名づけ」ます(恵みの再確認!)。

 そこから「ベツレヘムへ向かう道」の途中でラケルは難産の末男児を産みます(ヨセフの弟→30章「私にもう一人男の子を加えてください」)。母は「ベン・オニ」(私の苦しみの子)と名づけて死にますが、父は「ベニヤミン」(右手の子)と改名します(→ヤコブの12人の息子→12部族)。長子ルベンとビルハのスキャンダルがあり、最後には父イサクの死と葬儀で締めくくられます。ヤコブはそれらの悲しみや苦しみも受け容れることが出来る強さを持つ人になっています。

 弱って下を向いていたヤコブが主の言葉を聞いて「さあ(立って)、べテルに上ろう」と顔を上げます。「涸れ谷で水をあえぎ求める」(詩42篇)鹿のように「活ける神」(讃322番)を慕う者は幸いです。








2022.2.13


ヨセフが夢を見て…」

    創世記3736


37章以下ではヤコブも登場しますが(→49、50に彼の死と埋葬)、活動するのは息子たちで、特にヨセフが活躍します(「ヨセフ物語」!)。

優れた信仰者が誤解されて苦しんでも主はの歩みを導かれます。

ヨセフは17歳の時、兄弟(たち)と一緒に羊の群れを飼って」いましたが、父のヤコブはラケルの忘れ形見のを特に可愛がって「長袖の上着」を作ってやます。「ある時、ヨセフが夢を見て」(「麦の束」と「日と月と十一の星」)、それを語ったので「兄弟(たち)はヨセフを妬んだが、父はこのことを心に留め」ます。「神の恵みが降り注がれる時、人の妬みを買っても悲しむべきではない。」(カルヴァン)

 兄たちが遠方で羊を飼っていたので、父がヨセフに「兄さんたちは無事か…知らせてくれ」と言うと、彼は骨惜しみせず「シェケムにやって」来て、さらに「ドタンで彼らを見つけ」ます(→ルカ15章「迷った羊を捜し歩く羊飼い」)。「兄弟(たち)は遠くにヨセフを認めると…彼を殺そうと謀」りますが、ルベンが命を取るべきではないと言うので、「彼らは…長袖の上着を剥ぎ取り…穴に投げ込む」のです

 兄たちが「座って食事をし」ている時、「イシュマエル人の隊商」(ミディアン人も一緒?)が来たので、ユダは「彼に手をかけてはならない」と言い、「ヨセフを銀20シェケル(奴隷の3分の2の値段)で売り」ます。雄山羊の血を浸した上着を見てヤコブは「幾日も…泣き悲し」みますが、ヨセフは「エジプトで…ポティファルに売り渡」されて無事です(→神学セミナー地球規模の災害の中にも働く神の意志」)。

 信仰者は「あの夢見る者」と嘲られても、「主よ御手もて引かせたまえ」(讃285番)と歌いつつ、「主に任せて」歩むのです。









2022.2.20


ペレツと名付けられた…」

    創世記


「ヨセフ物語」が始まったと思ったら、38章ではユダの話になります。彼は信仰者らしくない人物ですが、息子の嫁となったタマルによってダビデ王の祖先になります。主は人間の弱さの中でも働かれます。

 ヨセフを助けたユダですが(→37章)、彼自身は「兄弟(たち)のもとから下って…カナン人…の娘を見初めてめとり」というように信仰的ではありません。やがて「ユダは長男のエルにタマル(「なつめやし」)という名の妻を迎え」ますが、エルは「主の目に悪とされ…殺され」ます。次男のオナンが兄嫁と結婚しますが、不自然な性的行為をして、彼も若死にします。三男のことを心配したユダは「シェラが成人するまで」という口実で彼女を実家に帰します。全く権威のない父親です。

 弱そうに見えたタマルが「ユダの妻が死んだ」のをきっかけに反撃に出ます。「あなたのしゅうとが…ティムナへ上って来ます」と聞くと、「やもめの服を脱ぎ、ベールをかぶって」遊女に成りすまします。「彼女は常に機会を探って…スパイを派遣していた。」(カルヴァン) ユダは彼女への保証の品として「ひもの付いた印章」などを渡します。

 ユダの子どもを身ごもったタマルは、殺されそうになりますが、保証の品を示してユダにその子を認知させます。ユダ家の嫁として彼女は双子を産みますが、ゼラ(深紅)より先に出て来た子を助産婦が「あなたは割り込んだりして」と言ったので、「ペレツ(割り込む)と名付けられ」ます(ユダ家の繁栄→49章「王笏はユダから離れず」)。

後には「タマルがユダに産んだペレツの家」(ルツ記4:12)として尊敬されるようになります神の御子もまた、貧しいダビデ家の子孫として「まぶねの中に産声」(讃121番)をあげられます(→マタイ1章)。






2022.2.27



主がヨセフと共におられた…」

    創世記23


 ユダ家の話のあと、再び「ヨセフ物語」になり、エジプトに奴隷として売り渡されたヨセフの話になります。彼はポティファルの家で、主人の妻に言い寄られて苦しみますが、主は彼と共にいて助けられます。

 「ファラオの役人で親衛隊長のエジプト人高官の家です(→ヒクソス人がファラオだった時代→BC1650年頃→400年後に出エジプト)。「主がヨセフと共におられたので…主人の家にいることに」なります(屋外の肉体労働ではなく!)。「主人が家の管理をヨセフに任せてから…主はヨセフのゆえにそのエジプト人の家を祝福され」ます。「神の恵みはヨセフにおいて輝いていた。」(カルヴァン) 彼は「顔も美しく、体つきも優れて」います(→29章「ラケルは姿形が美しかった」)。

 主人の妻は「ヨセフに目をつけ」(「女難の相」!)ますが、彼は「ご主人は…財産のすべてを私の手に委ねられました」とその恩を語り、「どうして…神に罪を犯すことが出来ましょう」と言って退けます(→箴言7章「父の諭し」)。彼女はさらに言い寄り「ヨセフは服を彼女の手に残し」て逃げます。彼は身の危険を承知でそうするのです(勇気ある決断!)。

 妻の訴えを聞いて、主人は「王の囚人がつながれている牢獄に入れ」ます(→詩105篇「ヨセフの足を足枷で痛めつけ」)。しかしそれでも「主はヨセフと共におられ…牢獄長の目に適うようにされ」たので、彼は「牢獄にいる囚人をすべてヨセフの手に任せ…取りしきるように」させます。肉体的には苦しくても、ヨセフの心は晴れ晴れとして喜んでいます。

 「主がヨセフと共におられた」ために、困難の中にあっても彼は明るく生きます(→マタイ28章「世の終わりまで共に」)。「御恵み豊けき主の手引かれて」(讃294番)歩む者は「御跡を行くこそ」と歌うのです。