2022.3.6

ヨセフの説き明かし…」

  創世記4041:36


 牢獄に入れられたヨセフは、そこで囚人たちの夢を解き明かします(40章)。その年後、ファラオのを解き明かすことになり、主なる神はを用いてご自分の計画を明らかにされます(41章前半)。

 ファラオに対して過ちを犯した「二人の宮廷の役人、献酌官長と料理長」という高官たちが牢獄に入れられて「ヨセフは彼らの世話をし」ます。彼ら見た夢(「ぶどうの三本のつる」と「三つのパン籠」)を聞いて、前者は赦され後者は処罰されるとヨハネは告げ、その通りになります。しかし「献酌官長はヨセフのことを…忘れてしまった」のです(わざと?)。

 年後、ファラオはナイル川のほとりの夢(「七頭の美しく肥えた雌牛を食い尽くす七頭の醜く痩せ細った雌牛」と「よく実った七つの穂を吞み込む瘦せ細った七つの穂」見ますファラオは「エジプトの魔術師と賢者」を呼び集めて説き明かさせますが納得できません。その時になって、献酌官長は「ヘブライ人の若者」のことを申し出ます。「私は、今日になって自分の過ちを思い出しました」と言うのです(忍耐深いヨセフ!)。

 ファラオが「あなたは夢の話を聞いて、説き明かすことが出来るそうだが」と言うと、ヨセフは「私ではありません」と謙遜に答え(Ⅰコリント3章「成長させてくださったのは神」)、「神がファラオに平安を告げられるのです」と温か言い方をします。「ヨセフは愛情を込めて心からこの言葉を伝える。」(カルヴァン) 「神がこれからなさろうとしていること」を告げられたので、「聡明で知恵のある人物」が必要だと提言までします。

 牢獄で過ごした年の間に、ヨセフはエジプトの政治・経済に通じ、神がされることを見通せる者になっています。「信仰こそ旅路を導く(樫のような)杖」(讃270番)と歌いつつ歩む者は幸いです。







2022.3.13

ヨセフのもとに行け…」

  創世記4137―57


 ヨセフがファラオの夢を解き明かし、さらにこれから起こることについて対策の提言までしたことが、好意的に受け入れられます。主なる神は優れた信仰者を用いて、大きな働きをさせてくださる御方です。

ファラオはヨセフこそ「神の霊が宿っている人」であり、「聡明で知恵のある者」(→33節)であると称賛し、「見よ、私はあなたにエジプト全土を治めさせる」と言います(総理大臣!)。服装も整えてパレードをし「ひざまずけ」(古代エジプト語「アブレク」)と言わせるなど、大きな権威を与えます。ヨセフが求めたのではなく主がそうされるのです。

 ファラオはヨセフに「ツァファナト・パネア」(神は語り、彼は生きる)というエジプト風の名前を与え、「オン(ヘリオポリス→太陽の町)の祭司ポティ・フェラの娘アセナト」を妻とさせます(太陽神の祭司の家の娘!)。二人の息子が与えられ、ヨセフは感謝を込めて「マナセ(労苦を忘れる)」と「エフライム(子孫を増やす)」と名付けます(→48章「ヤコブの祝福」)。願う以上の事をされる主です(→エフェソ3:20)。

 「三十歳」(→37章「十七歳」のヨセフは「エジプト全土を巡回」して働き「豊作の七年の間…海辺の砂ほど多くの穀物を蓄え」ます。「これはヨセフの並々ならぬ勤勉さの証であった。」(カルヴァン) 次に「飢饉の七年が始まり…民衆はファラオに食物を呼び求め」ますが、ファラオは「ヨセフのもとに行け」と安心して言うことが出来ます。「諸国の人々は…穀物を買いにヨセフのところにやって来」ます(彼の兄弟たちも!)

 ヨセフの信仰は生活の中に生きています(大阪教会の結婚式!)。ファラオのヨセフに対する信頼は裏切られません。「苦しめる時」(讃267番)でも「神はわが櫓…強き盾」と歌って戦う者は幸いです。







2022.3.20


ガリラヤから始めて…」

  ルカ2312


「ヨセフ物語」は一区切りして、ルカ福音書による「受難と復活」の説教になりますルカ23章からはローマ側の裁判の話です。主イエスは罪のない御方ですが、無理やり罪ある者とされて十字架につけられます。   

主はユダヤ側の「最高法院」の裁判では「人の子は力あるの右に座る」と宣言しつつも、「お前は神の子か」と問われると、「そうだとはあなたがたが言っている」(口語訳「あなたがたの言うとおり」)と解釈の余地を残されます(22章後半)。ユダヤ人指導者たちは「皆立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて」行き、「民を惑わし…税金を納めるのを禁じ…王たるメシアだと言っております」として、主を政治犯に仕立て上げようとします(→ヨハネ4章「素直に信じるサマリア人たち」)。

 ピラトは「お前はユダヤ人の王なのか」と問い、主は「あなたが言っていることだ」(口語訳「そのとおり」)意味の違いを指摘されます。政治的王ではないとわかって、彼は「この男には何の罪もない」と無罪を確信しますが、「ガリラヤから始めて…ユダヤ全土で…民衆を扇動している」訴えるユダヤ人たちを恐れます(→「ポンテオ・ピラトのもとに」)。

ピラトはガリラヤの領主ヘロデとの関係改善を図って「イエスをヘロデのもとに送ります。「ピラトは自分の手でキリストを断罪することを避けようとした。」(カルヴァン) ヘロデは「イエスが何かしるし(奇跡)を行うのを見たい」と子どものようなことを期待しますが、主は応じられません政治家の駆け引きで、二人は「仲が良くなった」とルカは書きます。

 「ガリラヤから始めて…」とユダヤ人指導者たちは、主イエスの影響力の大きさを危険視します「ガリラヤの風かおるあたり」(讃228番)から始まった福音のために「御国を来たらせたまえ」と働く者は幸いです。
                               







2022.3.27



イエスを十字架につけるように…」

  ルカ231325


 ローマ側の裁判が改めて開かれ、ピラトが判決を言い渡すことになります。この時の裁判では、主イエスの処分についていくつかの選択肢がありましたが、最後的には十字架にかけるようにという声が勝ちます。

 ピラトは「祭司長たちと議員たち」だけでなく「民衆」も呼び集めて、彼らの支持を期待します。これまでの経過を説明して、主が訴えられたことについて検討したが、「この男は死刑に当たるようなことは何もしていない」と、改めて無罪を確認します。妥協策として、「懲らしめたうえで(子どもに体罰を加えるように→口語訳「むち打って」)釈放しよう」と示唆します。「もしも神の御子がこういう方法で釈放されていたら…私たちの救いには何の利益もないことになったであろう。」(カルヴァン)

 指導者たちに扇動された民衆は「その男は連れて行け(口語訳「殺せ」)、バラバを釈放しろ」と叫び出します(→17節は後の人が加えた説明)。彼は「都で起こった暴動と殺人のかどで投獄された」危険人物でした(映画「バラバ」!)。ピラトが「イエスを釈放しようと、群衆に呼びかけ」ても、その声はかき消されます(現代の世界!)。

 それでもなお「ピラトは三度目に」語り掛けますが、「人々は、イエスを十字架につけるように大声で叫んで…ついに、その声がまさった」のです。結局、ピラトは「イエスを彼らの求めるままに十字架へと引き渡し」ます(→イザヤ53章「彼は我が民の咎のために打たれしなり…」)。

 「聖なる正しい方(イエス)を拒んで、人殺しの男(バラバ)を赦すように要求」するような者のためにも、「神はこの方を死者の中から復活させて」救いの道を開かれた、とペトロは語ります(使徒3章)。「光と闇との行き交う巷」(讃276番)の中でも「真の道」を行く者は幸いです。