2022.1.2


喜びが満ち溢れるように

          ヨハネ1:


 昨年、主日礼拝や祈祷会で教えられた中から、今年の「年間聖句」を選びました。三つの聖書個所から、苦しい事、悲しい事がある中でも信仰によって喜びが満ち溢れるような生活をしたい、と教えられます。

 第一は「ザアカイは急いで下りてきて、喜んでイエスを迎えた」(ルカ19:6)です。「徴税人」(→口語訳「取税人」)であったザアカイ(→大泉牧師「ザアカイ生」)は、「イエスがどんな人か見ようと(ディザイア―)」して「いちじく桑の木に登る」ほど熱心に求めます。主イエスという真の友を得たザアカイは「財産の半分を貧しい人々に施します」と言うほど喜びに溢れます。主は「今日、救いがこの家を訪れた」と喜ばれます。

 第二は「私はあなたに約束したことを果たすまで、決してあなたを見捨てない」(創世記28:15)です。故郷の家を離れて「石を取って枕にする」ような孤独の中で、ヤコブは「天にまで達する階段(→口語訳「はしご」)を昇り降りする天使たちを見て勇気付けられますさらに主なる神の言葉によって励まされて、彼は「誓いを立てて」感謝を表します(孤独から解放された喜び!)。「その場所をべテル(神の家)」と名づけます。

 第三は「私たちがこれらのことを書くのは、私たちの喜びが満ち溢れるようになるため」(Ⅰヨハネ1:4)です。使徒ヨハネは「交わり」の二つの方面を語ります(→牧師夫妻の証し「悲しみの中での救い主の発見と信仰の友の存在」)。ヨハネ自身が、年老いても「あなたがたのところに行き、親しく話したい」(Ⅱヨハネ12)と積極的に交わりを求める人です

 私たちの「喜びが(水のように)満ち溢れる」ために、神と人との交わりを求めるのです(→メルケル首相『わたしの信仰)。「天なる喜び」(讃352番)を与えてくださる主と共に「御国に昇る日」まで歩みます。







2022.1.9


ヤコブは祈った

          創世記32:1-22


  ヤコブは長く苦しめられた叔父のラバンとやっと和解した後で、かつて長子の権利をだまし取るようにして奪った兄のエサウと20年ぶりに 再会します。その準備をしながら不安になるヤコブは主に祈ります。

カナンに近づいた時、「神の使い(天使)たちが現れた」(→28章「ヤコブの夢」)のを見て、ヤコブは「これは神の陣営だ」と言って「マハナイム(二つの陣営)」と名付けます。そこから「エドムの野にいる兄のエサウ」に使いを送って丁重な挨拶をしますが、兄が「四百人を引き連れて」来ると聞いて「非常に恐れて悩み」ます。「私たちの信仰は…疑いや恐れを完全に追いやるほど完璧ではない。」(カルヴァン)。

 ヤコブは主に祈り、「私は…すべての慈しみとまことを受けるに足りない者です」と告白しつつ、「親族のもとに帰りなさい」(31:3)と命じ、「必ずあなたを幸せにする」(28:14)と言われた約束に信頼します。

「私の兄が怖いのです」と正直に言いますが、「杖だけを頼りにこのヨルダンを渡」った彼が今では「二組の宿営を持つまでになりました」と、主の恵みを数えるのです(→新聖歌172番「数えてみよ主の恵み」)。

 その夜、彼は「兄エサウへの贈り物」を選んで対策を考えます。「雌山羊2百匹…雄ろば十頭」(全部で550頭!)というほど法外な数の家畜を惜しみません。それらを群れに分け、僕たちに命じて「あなたの僕ヤコブも私たちの後から参ります」と言わせます。「贈り物を先に行かせて、エサウをなだめ」てから会うつもりです(信仰による知恵!)。

 不安になった時、ヤコブは子どものように主に信頼して祈ります。「静けき祈りの時はいと楽し」(甘美な時)と言えるほどに祈りつつ(讃310番)やがて「ふるさと眺めて昇り行く日まで」歩むのです。







2022.1.16

 

イスラエルと呼ばれる…」

   創世記32:2333


ヤコブはいよいよ故郷のカナンに帰ってきましたが、いざそこへ入って行こうとすると、心の準備をしなければなりませんでした。主なる神は彼の信仰を訓練して、強い信仰者にしようとされます。

その前夜、彼は妻たちや子どもたちを連れて「ヤボクの渡し浅瀬)を渡って…自分の持ち物も一緒に運ばせ」ますが、「ヤコブは一人、後に残」ります(→4年前の牧師夫妻の引っ越し)。「彼にとって、祈るためには一人になるのが良かった。」(カルヴァン) 祈りの中で「ある男が夜明けまで彼と格闘」します(→ホセア12章「天使との格闘」)。「その男は勝てない」ほど彼強いのです(→29章「石を動かすヤコブ」)。

その天使(神の代理者)が「彼の股関節に一撃を与え」たので「外れて」しまいます(故副牧師の肩の脱臼!)。負けても「祝福してくださるまでは放しません」としがみつく彼に根負けして「あなたの名はもはやヤコブ(「かかとをつかむ者」)ではなく、これからはイスラエル(「神と格闘する者」)と呼ばれる」と宣言されます。ヤコブは傷を負いつつも勝ったのです(→Ⅱコリント12章「力は弱さの中で現れる」)。

ヤコブは「あなたの名前を教えてください」と求めますが、主は応じないままで彼を祝福され、彼は「顔と顔とを合わせて神を見たが、命は救われた」と言って喜び、その場所を「ペヌエル(神の顔)と名付けます。そこを立ち去る彼は「腿を痛めて足を引きずって」いますが「日はすでに彼の上に昇って」明るいのです(→ローマ8章「神が味方」)。

自分の力や知恵で勝ってきたヤコブが、負けても助けてくださる神を知った時、信仰の強者になりました。「悩みの淵より」(讃258番)助けを求めつつ「イスラエル人を救いし御神はわが牧者」と歌います。








2022.1.23

神が恵んでくださったので…」

   創世記322


ヤコブはぺヌエルから出発して、兄のエサウと20年ぶりに再会することになります。思いがけな優しく接してくれる兄に会って、ヤコブは神の恵みを感謝します。主はいつでも恵み深い御方です。

「ヤコブが目を上げて見ると、エサウが四百人の者を引き連れて」来るので、彼は妻たちや子どもたちを順番に配置し(ラケルが最後!)、自分が先頭に進んで「七度地にひれ伏し」て挨拶します(用心深いヤコブ!)。しかし「エサウは走り寄って…口づけ」するほどに優しいので(→10節「神の御顔を見るように」、二人は「共に泣いた」のです。「神はエサウの荒々しい心を優しさに変えられた。」(カルヴァン)

エサウに家族を紹介する時、ヤコブは「神が恵んでくださった子どもたちです」と感謝します(親としての心構え!)さらに「あの家畜の一群は何なのか」(→32章「550頭」)と尋ねるエサウに「神が恵んでくださったので、私にはすでに何でもあります」と言って贈り物として受け取らせます(行き過ぎるほどに親切なヤコブ!)。

  エサウは「さあ、旅を続けよう」と言って、自分が住んでいるセイル(カナンの南にある地)に行こうと誘いますが、ヤコブは上手に断わります(→36章「セイルにおけるエサウの子孫」)。ヤコブは「スコトへ移り」ますが、さらに西へ向かって「カナンの地にあるシェケムの町」に着き、「そこに祭壇を築き、それをエル・エロへ・イスラエル(イスラエルの神である神)と呼ん」で礼拝します(主を証しする生活!)。

ヤコブは神への感謝を表わすために、礼拝する生活を確保しようとします(主日礼拝!)。「恵み深き主」(讃525番)を知った者は「わが主、わが神、恵みたまえ」とさらに恵みを求めるのです。








2022.1.30

ヤコブはシメオンとレビに言った…」

    創世記34:31


 カナンのシェケムに住むようになったヤコブですが、娘のディナを巡ってトラブルに巻き込まれます。すっかり弱ってしまって、少しも信仰者らしくない彼ですが、それでも主なる神は見捨てられません。

 数年後の「ある日」のことです(子どもはすぐ大きくなる!)。「レアがヤコブに産んだ娘ディナ」(→30章「一人娘」)を「その地の首長…ハモルの息子シェケは…共に寝て辱め」ます。それを聞いてもヤコブは「黙って」います(いつもはすぐに行動する彼!)。「ヤコブは大いなる苦しみに打ちひしがれて、言葉を発せられなかった。」(カルヴァン)。

シェケム「この若い娘を愛」するようになり、父親と共に結婚の申し込みに来ます。「私どもの親戚になっていただいて…言う彼らに対して、「ヤコブの息子たちは、あることをたくら」み、「男子は割礼(小さな外科手術!)を受ける」という条件を出します。シェケムの「すべての男子は割礼を受け」ます。この時もヤコブは沈黙します。

「三日目になって…まだ傷の痛みを覚えていたとき」をねらって、「ディナの兄弟シメオンとレビは…剣を取って…男たちをすべて殺し」ます(手下たちと共に!)。彼らは「幼い子どもたちと女たちを捕虜にし…すべてを略奪」するという暴挙に出ますが、ヤコブは「厄介なことをしてくれた…」というだけで、少しも説得力がありません。後になって「シメオンとレビは兄弟、彼らの剣は暴虐の武器…激しい彼らの怒りは呪われよ」(49章)と裁きますが、この時の彼は全く惨めです。

信仰者らしくないヤコブに対して神は語られます(→35章)。若い時だけでなく、年を取ってからも「わが心は定かならず」(讃333番)と嘆きつつ「主よ我をば捕らえ給え」と歌うのです。