2022.7.3


エフライムとマナセのように…」

創世記42748:


 エジプトに移住してから17年後の話になります。147歳になったヤコブは、自分の死を予感してヨセフに死後の事を頼みます(葬儀の備え

主なる神は、ヤコブを導いてヨセフの息子たちを祝福させられます。

 ヤコブはヨセフに「私の腿の下に手を入れて誓い…私をエジプトから…先祖たちの墓に…」と念を入れて頼みます(→24章「アブラハムの願い」)。

「ヤコブは自分がカナンに墓を求めることがエジプト人を喜ばせないことを知っていた。」(カルヴァン) 困難を承知の上でヨセフが「お言葉どおりに…」と承諾するので、ヤコブは「寝台の枕元でひれ伏して」主に感謝します(ヘブライ11章「礼拝するヤコブ」)。

 やがて死の時が来て、ヤコブはヨセフと二人の息子に向かって「全能の神がカナンの地、ルズ(べテル)で私に現れ…」28章)と語り、その祝福をヨセフの息子たちに継がせるために「二人の息子を私の子どもとしたい」と申し出ます(養子縁組使徒16章「あなたの家族も」)。「カナンの地でラケルに死なれた」と語るのもヨセフの心を動かします。

 こうして養子になった二人を祝福するのに、ヤコブは「右手を伸ばして弟であるエフライムの頭の上に…左手を(兄の)マナセの上に置」きます(27章「ヤコブとエサウの祝福」)。ヨセフは驚きますが、ヤコブは「弟のほうが彼(兄)よりも大きくなり…」と予告します北王国の中心部族)。ヤコブは主の祝福の代行者です(牧師の聖餐執行や祝祷)。

 主はそれぞれに違う祝福を与えられます(マタイ25章「タラントの譬え」)。与えられた祝福を感謝しつつ「主よ終わりまで仕えまつらん」(讃338番)と歌って生きる者は幸いです。








2022.7.10


ヤコブの子らよ…」

創世記4933


 49章でヤコブは12人の息子たちを集めて最後の言葉を語ります(→12部族の名前→カナンの中心部に住む4部族)。主なる神は、ヤコブを通して12人に対して祝福の言葉を語られ、ヤコブは死の時を迎えます。

 前半はレアの6人の息子たちです。「ヤコブの子らよ、集まって、聞きなさい」と言い、長男のルベン、次男と三男のシメオンとレビ、四男のユダ、十男のゼブルン、九男のイッサカルと、それぞれの長所と短所とを語ります。特にユダに対しては、「王笏はユダから離れず」とダビデ王を生む家系となると告げ、「ついにはシロ(メシア)が来て、国々の民は彼に従う」(新改訳)と預言します。それでも「雄ろばぶどうの木につなぎ…衣をぶどう酒で洗い…」というような過度のぜいたくを戒めます。

 後半は召し使いとラケルの6人の息子たちです。五男のダン、七男のガド、八男のアシェル、六男のナフタリはいずれも小部族ですが、ヤコブは心配で「主よ、私はあなたの救いを待ち望む」と祈らずにおれません。ヨセフの二人の息子エフライムとマナセは大部族として「実を結ぶ若木」のようになり、ベニヤミンはかみ裂く狼」のような活躍をします。

 ヤコブは「それぞれにふさわしい祝福(叱責も!)をもってを祝福」します(→「子を知る者親に如かず」)。「私は間もなく先祖の列に加えられる」として墓のことも指示した上で「足を寝台に収め、息絶えて」その生涯を閉じます。「地上のはかない幕屋(肉体)を去って行くのは悲しい事ではない。滅びることのない住まいが待っている。」(カルヴァン)

 かつてはヨセフを偏愛して子育てに失敗したヤコブですが、今は「ヤコブの子らよ」と呼びかけて、一人一人を大切にします。「飼い主わが主よ」(讃354番)と呼ぶ者として、その愛に学ぶ者は幸いです。

 







2022.7.17


ヨセフは兄弟(たち)を慰め…」

創世記5026


 50章ではヤコブの葬儀とその後の事が語られ「ヨセフ物語」は完結します(→葬儀の大切さ→「グリーフワーク」)主なる神は、ヤコブの葬儀を通してイスラエルの民の信仰を導かれます。

 ヤコブは死んで「ヨセフは父に取りすがって泣き」ますが、「ミイラにするように命じ」、ファラオの許可を得て、「父を葬るために(カナンに)上って行」きます。「実に堂々とした一行」で「ヨルダン川の向こう「(東側)にある」場所(後に「アベル・ミツライム」と呼ばれる)で7日間の追悼の儀式を行い、その後、ヤコブの息子たちは遺体を「マクペラの畑地の洞窟」(→23章「サラの墓」)に葬ります(信仰の証の場!)。

 ヨセフの兄弟たちは「父が亡くなったので…悪に仕返しをするのではないか」と不安になります(人間の弱さ!)。彼らは父の言葉(作り話?)と神の名を挙げて「僕どもの背きの罪を許してください」と伝えさせ、「聞いてヨセフは泣いた」とあります(複雑な涙!)。ヨセフは「あなたがたは私に悪を企てましたが、神はそれを善に変え」られたのだと断言します。ヨセフは今、より率直に、心を開いて彼らに語っている。」(カルヴァン)

前回(→45章)よりも踏み込んでいます(「雨降って地固まる」!)。

 最後にヨセフも死にます。「ヨセフは…110歳まで生きた」とあり、「神は必ずあなたがたを顧み…誓われた土地(カナン)に導き上ってくださいます」と語り、「私の骨をここから携えて上ってください」と頼みます(→出エジプト13:19→ヘブライ11章「骨について指図するヨセフ」)。

 ヨセフは「どうか心配しないで…」と言って「兄弟を慰め」ます(→ローマ12章「善をもって悪に勝つ」)。弱くて躓きやすい信仰者でも、「信仰こそ旅路を導く(樫の)杖」(讃270番)と歌って進む者は幸いです。







2022.7.24


神は天と地を創造された…」

創世記


 「ヨセフ物語」に続いて、創世記の初めの「アダム物語」を取り上げます(「アダム」は土から形づくられた人間)。主なる神は、アダムが住むために何もないところからこの世界を造り、そこに光を与えられます。

 「初めに(ベレーシース)」とありますが、それは時間さえもない初めの事です(→ヨハネ1章「初めに言があった」)。「創造された(バーラー)」とは「無からの創造」であって、何かを使って作るのではありません。そういう力強い神が「天と地」(この世界)を創造されたことを知る者は幸いです(→コへレト12章「若き日に、あなたの造り主を心に刻め」)。

 創造以前には「地は混沌として(→口語「形なく、むなしく」)、闇が深淵の表にあり」、という有様でした。そこでも「神の霊(ルアハ)が水の面を動いていた(→口語「おおっていた」)とあるように、聖霊なる神が働いておられます(→申命記32章「親鳥が雛を守るように」)。

 創造の業は手を使うのではなく「神は言われた」とあるように言葉によってなされます(→ヨハネ1章「万物は言によって」→イザヤ55章「神の口から出る言葉」)。神が「光あれ」と言われて光が最初に創造され、「神は光を見て良しとされ」ます。「神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた」とし、「夕べがあり、朝があった。第一の日である」とユダヤ風の数え方をします。この光は太陽とは別です(→第4日→伊勢神宮「天照大神」)。「神は太陽や月なしでも光を与えることがおできになる。」(カルヴァン) 「闇は光に勝たなかった」(ヨハネ1章)のです。

 神による創造は科学の説明とは矛盾しません(「カブトガニ博士」と呼ばれるクリスチャン)。フランチェスコと共に「ものみなこぞりて御神を讃えよ」(讃75番)と歌う者は幸いです。








2022.7.31


神は見て良しとされた…」

創世記13


 天地創造の第1日目に光が造られたということですが、それは日曜日でした(→讃55番「今日は光を賜いし日」)。主なる神は第2日目(月)に

大空を、第3日目(火)に陸地と植物を造り、それを見て喜ばれます。

 光に照らされた世界は水浸しなので、は「水の中に大空(ラキーア「打ちたたいて拡げた物」)があり、水と水とを分けるようになれ」と言われます(→ヨブ37章「鋳造した鏡のような堅い大空」。人間には雨露をしのぐ屋根が必要です(雨宿りの場所!)。時には大雨が降ることもあります(→創世記7章「ノアの洪水」→「天の窓が開かれた」)。

 屋根が造られても床が水浸しでは座ることもできないので、神は「下の水は一か所に集まり、乾いた所が現れよ」と言われます(→ヨブ38章「海のために境を定め、かんぬきと扉を設け」)。「神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれ」て、陸地を守られます(→オランダの海岸線→東日本大震災の津波)。「神は見て良し」とされます。

 食物の必要のために(→29節)、神は「地は草木を…種をつける草と…実を結ぶ果樹を…それぞれの種類に従って(進化論!)…生えさせよ」と言われます。人間が世話をして食料を得るのです(→2章「アダムの仕事」)。

「そのようになった」とありますが、まだ太陽はありません(→第4日目→炭酸同化作用)。「私たちは地が太陽の光を受けて実を結ぶのを知っている…その力はすでに働いているのである。」(カルヴァン) 主イエスは「何を食べようか…と思い煩うな」(マタイ6章)と言われます。

 第2日目の大空の創造は第3日目の陸地の出現によって完成します(火曜日に2回「良しとされた」がある→ユダヤでは吉日!)。「青き空よ」

(讃73番)と神が創造されたものと共に賛美する者は幸いです。