2020.3.1



■「花婿が一緒にいるのに

         ルカ52739 

  主イエスが「取税人や罪人」たちと飲食を共にしたり、断食をしなかったりされるのを見て、パリサイ人たちは批判します。しかし主は、すでに新しい時代が来ていることを知らせたいのです。

カペナウムの町で、主は「レビという取税人」を召され、彼は「いっさいを捨てて」従います(→6:15「使徒マタイ」)。盛大な「お別れパーティ」で取税人たちと食事される主を、パリサイ人たちは批判しますが、「健康な人には医者はいらない」として、ご自分が「罪人を招いて悔い改めさせる」医者だと言われます。「キリストの血によって…私たちは父なる神と和解させられる。」(カルヴァン)

 パリサイ人たちのもう一つの批判は、主や弟子たちが断食しないで「食べたり飲んだり」していることです(→ルカ18章「週に二度食するパリサイ人」)。しかし主は、「花婿が一緒にいるのに、婚礼客に断食させる」ことは出来ないと、ご自分を花婿とされます(→タイ22章「王子の婚宴」)。私たちは婚宴に招かれた客です。

主の救いの福音は「新しい着物」や「新しいぶどう酒」にたとえられます。それに合わない「古い着物」や「古い皮袋」(動物の皮の容器)に固執すると、両方がダメになります。「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである」と主は宣言されます。それと共に、「古いのが良い」と言う人々がいつの時代にもいるので、クリスチャンもそうならないように気を付けるべきです(「聖書に帰ろう」!)。

 主イエスはカナで婚礼の客として招かれた時、「最初の奇蹟を行ってこれを祝され」ました(→結婚式の式文))。私たちも主に招かれて、「喜べや、たたえよや」(讃130番)と歌う「主の民」になります。






 


2020.3.8



■「安息日に善を行う

           ルカ611


  ルカの「ガリラヤ伝道時代」の話が続きます。弟子たちや主イエス安息日の行動をパリサイ人たちは批判します。しかし主は、安息日には主なる神の救いの業を前進させる働きをして欲しいのです。「ある安息日に…麦畑の中を…弟子たちが穂をつみ、手でもみながら食べて」いるのを見て、パリサイ人たちは「安息日にしてはならないことをする」と「重箱の隅をつつく」ような批判をします。他人の麦を盗んだからではなく(→申命23:25)、収穫と脱穀は十戒の「安息日を覚えて、これを聖とせよ」(出エジプト20:8)への違反だと言うのです。彼らは、「私たちが手の業を止める時、神が私たちのうちに御業を遂行してくださる」(カルヴァン)という「霊的安息」の切さがわかっていません(→讃56番「天の休みのしるし」)。

 主は「ダビデとその供の者たちが飢えた時」(サムエル上21章)に、神の家で「供えのパンを取って食べた」例を引き、寛容さを示されます。神の御子は、「安息日の主」として教えられます。

別の安息日に、主はシナゴーグで「右手のなえた人」(伝説によると左官職人)を見られ、「まん中に立ちなさい」と言われます。パリサイ人たちに、「安息日に善を行うのと悪を行うのと…どちらがよいか」と質問されますが、答えられません。主は、この男にとって右手の問題は「命を救うのと殺すのと」同じくらい大きなことだとし(生活の不安!)、「手を伸ばしなさい」と言って癒されます。

 主は、教会が「霊的安息(休息)」を与える働きを続けて欲しいと願っておられます。「ナザレの大工(イエス)よ…力の限りに働かしめよ」(讃367番)と歌いつつ、働く者は幸いです。



2020.3.15

 

■「十二人を選び出し

         ルカ61226


  ガリラヤ伝道の初めの頃、主イエスは12人の弟子たちを「使徒」として選び彼らのために伝道の模範を示されます。ここでは彼らに対して、苦しいことが多くても幸いなのだ、と招かれます。

主は「山へ行き、夜を徹して神に祈られ…12人を選び…使徒という名をお与え」になります。「ペテロ…熱心党(革命家)のシモン…イスカリオテのユダ」です(玉石混交。特に、「このユダが裏切り者となった」とあるのは、「教会の中心となるような人々が堕落しても…信仰にとどまるように」(カルヴァン)と教えられるのです。

主は「山を下って平地に立たれ」ます。「ユダヤ全土…ツロとシドンの海岸地方(外国!)からの大群衆」が、「教えを聞こうと…また病気をなおしてもらおうと」してやって来ます。そして、「力がイエスの内から出て…次々にいやした」と、ルカは「癒し主イエス」を強調します(→ヤコブ5:14「オリブ油を注いで祈ってもらう」→アライアンスのロゴ)。教会は教えるだけでなく、癒しの働きもします。

その平地で、「イエスは目をあげ、弟子たちを見て…あなたがた貧しい…いま飢えている…いま泣いている人たち…人々があなたがたを憎むとき…さいわいだ」と語られます(ルカの「平地の説教」→マタイの「山上の説教」)。反対に、「あなたがた富んで…今満腹して…今笑って…人が皆あなたがたをほめるとき…わざわいだ」と、伝道者の生活の厳しさも語られます(→二宮宣教師の古いベッド)。

 12人はこれから「使徒」(主からつかわされる者)として出て行きます。戦いがあり、苦しむことも多いのですが、「主よ、終わりまで仕えまつらん」(讃338番)と歌いつつ歩む者は幸いです。


2020.3.22




■「弟子はその師以上のものではない

         ルカ62749


  ルカの「平地の説教」では、主イエスは特に弟子たちに対して、伝道者となるための心構えを語られます。彼らが「不肖の弟子」とならないために、いろんなことに気を付けながら働いて欲しいのです。

伝道者には愛が必要です(→マタイ5:38―48)。「敵を愛し、憎む者に親切に…頬を打つ者にはほかの頬を向けて…」というような経験(伝道や牧会!)もするし、「あなたに求める者には与え」ることもします(ものもらいの人!)。普通に「自分を愛してくれる者を愛したからとて、どれほどの手柄(神の恵みを受ける資格)になろうか」と言われる通りです。「父なる神が慈悲深い(→マタイ「完全」)ように…慈悲深い者」となる覚悟が必要です(献身者!)。

 伝道者には知恵が必要です(→マタイ7:1-5)。「人をさばくな…ゆるしてやれ…兄弟の目にあるちり(木くず)を見ながら、自分の目にある梁を認めないのか」と、愚かな指導者にならないように警告されます。反対に、「与えよ…人々は…ゆすり入れ…あなたがたのふところ(懐)に入れてくれる」ような指導者が賢いのです。

 伝道者には良い心が必要です(→マタイ7:15-27)。「良い心の倉から良い物を…心からあふれ出ることを、口が語る」とあるように、「言葉は心の肖像」(カルヴァン)です。主の言葉を聞いて行う者が「岩の上に…家を建てる人」です(「ボロは着てても心の錦」¡)。心を良くするものは御言葉です(詩119篇)。

 弟子たちは「その師(主イエス)以上のもの」にはなれませんが、「修業をつめば…」(「繕ってもらえば」→マルコ1:19)よいのです。

 「主よ御手もて引かせたまえ」(讃285番)と歌います。



2020.3.29



■「若者よ、さあ、起きなさい

         ルカ717


  主イエスは「平地の説教」を終えて、また通常の伝道活動を続けられます。ここでは2つの出来事が記されていますが、主は普通では考えられないようなことをして助けてくださる神の御子です。

カペナウムにはローマ軍の一部が駐留していたようですが、「ある百卒長(→新共同訳「百人隊長」)の頼みにしていた(ユダヤ人の)僕が、病気になって(→マタイ8章「中風で」)死にかかって」いました。彼はユダヤ人に同情的で「会堂(シナゴーグ)を建て」るのに協力を惜しまないほどです。彼は「イエスのことを聞いて…僕を助けて欲しい」と「ユダヤ人の長老たち」に頼ませます。

 主が彼の家に着く前に、「ただ、お言葉を下さい」と軍人らしい申し出をします(命令と服従!)。主は「これほどの信仰は、イスラエルの中でも見たことがない」と感心され、引き返されますが、主の命令によって「僕は元気になって」います(「遠隔治療」→使徒3章「ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」)。

 「ナインという町」で、主は「あるやもめにとってひとりむすこであった」若者の葬列に出会われます。主は彼女を見て「深い同情を寄せ」(「内臓がゆり動かされる」→ルカ15章「父は…哀れに思って…」「棺に手をかけ…死人が起き上って物を言い出」すようにされます。

 人々は「大預言者がわたしたちの間に…神はその民を顧みてくださった」と「神をほめたたえ」ます(→列王上17章、列王下4章)。

 「さあ(→新共同訳「あなたに言う」)、起きなさい」と主は言われます。「するとはただちに生に変わった。」(カルヴァン) このイエス君」(讃162番)に「冠(かむり)を捧げて」賛美するのです