2019.2.3


■「わたしたちの日ごとの食物を…」

             マタイ6:1115

 私たちが称えている「主の祈り」は、1880(明治13)年の文語訳です(→讃564番)。後半の3つは人間のためであり、主イエスは私たちが神の子らしい人生を歩むように、祈りを教えられます。

 先ず、「我らの日用(日曜ではない!)の糧(パン)を今日も与えたまえ」と、肉体の必要のために祈るのです(→4:4「人はパンだけで生きるものではない」が、主は人の弱さを知っておられる)。父なる神に信頼して生きる者は幸いです(伝道者の生活!)。

 次に、「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」と、「罪」(直訳は「負債」)の問題を取り上げます。罪とは神を傷つけることであって、私たちはクリスチャンになった時にその罪を赦されましたが、そのあとでも知らず知らずに傷つけて、負債を大きくしています(→マタイ18章「一万タラントの借金を免じられた僕」)。私たちが、「人々のあやまち(失敗)をゆるすならば…」と言われるように、もっと寛容な心を持つ者となれば、多くの人々と良い人間関係を持つことが出来るでしょう(豊かな人生!)。

 最後に、「我らをこころみに(試錬)にあわせず(引きずり込まず)、悪(い者)より救い出したまえ」と、右からの試錬(繁栄)にも、左からの試錬(逆境)にも(カルヴァン)、負けない力を祈り求めるのです(→ヨブ記42章「試錬によって成長したヨブ」)。「耐えられないような試錬に会わせられない」(Ⅰコリント10:13)神です。

   「わたしたちの日ごとの食物を」と、他の人々のことも考えつつ祈り、シナイ山から再出発するモーセのように(→出エジプト33章)、「み恵み豊けき主の手に引かれて」(讃294番)と歌いつつ歩みます。




2019.2.10



■「断食をする時には…」

          マタイ6:1618

  

   信仰生活の諸注意の最後は、「断食」についてです。主イエスご自は断食されましたが(→4:2)、当時のユダヤ教の習慣的なやり方を批判し、「新しいぶどう酒は新しい皮袋に」(9:17)と言われます。断食は良い事ですが、明るい顔でして欲しいのです。

 信仰熱心なパリサイは、年1回の断食(→レビ16:19「あがないの日」)だけでなく、週に2回も断食していました(→ルカ18:12)。

 無理なことをすると、「陰気な顔つき」になり、「人に見せようと…自分の顔を見苦しくする」ように偽善的になります。「彼らはその報いを受けてしまっている」と主は批判されます。無理は禁物です。

 主は弟子たちに、「あなたがたは断食する時には…顔を洗いなさい」と、普段と変わらない態度で信仰の成長のために努力するように、と勧められます。パウロも弟子のテモテに、「からだの訓練は少しは益する」と認めた上で(断食も!)、「信心のために自分を訓練しなさい」(第1テモテ4:7)と勧めます(我慢の大切さ!)。

 誰にも知られずに信仰のために努力するのは、簡単ではありません。主は、そういう私たちに、「隠れた事を見ておられるはあなたの父は報いてくださる」と約束されます。「人々の目には隠れていて失われたように見える善い行為を、神は喜んでくださる。」 (カルヴァン)それで私たちも頑張れます(楽器の練習に励む子!)。

 私たちは神の子とされて、花婿なる主イエスの「婚礼の客」(→9:19)として喜ぶだけでなく、「夫のために着飾った花嫁」(黙示録21:2)として主の再臨を待っています。「ああ嬉しわが身も、主のものとなりけり」(讃529番)と歌いつつ、喜んで準備するのです。




2019.2.17


■「いつも主と共に

               Ⅰテサロニケ4:17

 泣いても泣いても涙があふれてくる嘆きの時、パウロは「眠っている人々については…望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないため」13節と語り始めます。信仰を持たない者は、死んだら終わりだと思っているので、ただ嘆き悲しむしかありません。しかし、あなた達はそうであってはならないと語るのです。

 これは、嘆き悲しむのは不信仰だ、というのではありません。キリスト者でも、愛する者の死を嘆くのは自然なことで、むしろ、必要なことです。パウロが言おうとしているのは、その悲しみの中に留まり続けてはならない、この肉体の死が全ての終わりではないことを知って、目を上に、そして未来に向けなさい、死がもたらす絶望に捕らえられてはならない、ということです。死でさえも奪うことのできない、希望、復活に目を向けよ、と言うのです。そのことを信じる者は、安心して嘆き悲しむことができます。

 私達が目を向ける先には、主イエスの再臨、そして世の終わりがあります。そこにおいて、私達の救いが完成されます。主イエスのように考え、主イエスのように愛し、主イエスのように仕えること、それは終末が来るまで、この地上の歩みにおいて完成されることはありません。しかし、主イエスが再び来られる時、私達は、天の国の住人にふさわしく変えられます。私達は、地上の生涯にあって、その日を待ち望みつつ、憧れながら、なすべきことをなしつつ歩んでいる者です。

 復活させられた者は「いつまでも主と共にいること」(17節 新共同訳)になります。これが救いの完成、私達のまことの希望です。そして、私達の本当の幸いです。その時には、神様と、そしてイエス様と、「顔と顔とを合わせて、見る」(Ⅰコリント13:12)ことになりま

す。全く曖昧なところがなく、イエス様と共にいるということがはっきり分かるのです。



2019.2.24


■「天に、宝をたくわえなさい…

            マタイ6:19-21


 6章前半では、信仰生活の諸注意が語られましたが、後半では物質生活(衣食住)の問題が取り上げられます。健全な信仰生活のためには、健全な物質生活が大切です(「健全な精神は健全な肉体に」!)。旧約の賢人もそう語ります(→箴言30:9「冨と貧しさ」)。

 主イエスは、先ず財産についての態度を問題にされます。「あなたがたは自分のために…地上に、宝をたくわえてはならない」と言われます。財産を持つことを禁じられたのではなく(→使徒4章「地所や家屋」)、それだけでは、「虫(衣魚)が食い…盗人らが押し入ってみ出す(土蔵破り)」ので安全ではないからです。永遠の命を持たない人生は空しいと警告されるのです(→ルカ12章「愚かな金持ち」)。

  「天国は彼らのものである」(5:3)と言われる幸いな人たちに対して、主は「自分のために…天に、宝をたくわえなさい」と勧められます。「神は私たちに…決して滅びることのない宝を持つようにと、招いてくださる。」(カルヴァン)それにすぐには応じられない人もいますが(→マタイ19章「金持の青年」)、「らくだが針の穴を通る」より難しくても、招き続けるべきです(伝道の必要!)。

 信仰者にとって、「神の国と神の義を求めなさい」(6:33)とは、信仰を成長させることでしょう。主は、「あなたの宝のあるところには、(あなたの)心もある」と言われます(→ルカ12:34)。地上のものに「心残り」することなく、天に心を向けるべきです(残して来た本!)。そうすれば、地上の生活のことも楽に考えられます。

 天に心を向ける人は幸いです(説教のよい聴聞者!)。そういう人は、「あだなる世の栄えを喜び…」ではなく、「ひと足、またひと足」(讃288番)と歌いつつ、天国への着実な歩みを続けるのです。