2023.8.6

 

 

 

たとえ死の陰の谷を歩むとも…」 

          詩編23:1-6


 「召天者記念礼拝」なので、いつも召天者のために「枕辺の祈り」で読んでいる詩編23篇を取り上げます。ここではダビデという旧約時代の信仰者が、人生の苦しい歩みの中でも主の守りと慰めがあった、と歌います。

 「賛歌。ダビデの詩」とあるのは、ダビデ王が晩年に歌った詩だと考えられます(→ミケランジェロ「ダビデ像」)。ダビデ自身がその生涯の中で「主は私の羊飼い。私は乏しいことがない」という経験をしました(→箴言30章「貧しくもせず,富ませもせず」)。主は彼を「緑の野に伏させ、憩いの汀(みぎわ)に伴われ」ました水際を見つけて!)。失敗の多いダビデでしたが、「魂を生き返らせ…正しい道へと」導いて下さいました。

 主は優しい神であるだけでなく強い神です。「たとえ死の陰の谷(イスラエルには多い!)を歩むとも、私は災いを恐れない」と言えるのは、いつも助けに来てくださる方があるからです(→ルカ15章「見失った一匹の羊」)。そういう時でも「あなたは私と共におられ、あなたの鞭と杖が私を慰め」てくださいます(→サムエル下「息子アブシャロムの反逆」)。

 最後は遊牧民の天幕での主人のイメージです(→創世記18章「客をもてなすアブラハム」)。敵に追われたダビデが天幕に逃げ込むと、「私に食卓を整え…頭に油を注ぎ…杯を満た」して慰めてくださいました。今のダビデは、「命ある限り、恵みと慈しみが私を追う」と信じています。残りの生涯についても、「私は主の家に住もう、日の続く限り」と、主を礼拝する生活を続けると宣言するのです(→信仰者の老後)。

 誰も皆、やがて必ず「死の陰の谷」を歩むことになるのですが、主を信じる者は「あなたは私と共におられる」と言えるのです。「かい主わが主よ」(讃354番)と呼んで、「われらは主の者」と歌う者は幸いです。












2023.8.13


神の憐れみによる…」 

          ローマ918


 パウロは同胞のユダヤ人たちの多くがクリスチャンになっていないことで心を痛めています。彼はここで、神の祝福はイスラエル全体ではなく、神が憐れみによって選ばれた者が受け継ぐのだ、と語ります。

 彼は先ず「神の(約束の)言葉が無効になったわけではありません」と断言します(→創世記12章「祝福の基となる」)。アブラハムの子孫たちの中でも(→イシュマエルやケトラの子ども)、「イサクから出る者が、あなたの子孫」(同21章)であり、「来年の今頃…サラには男の子が生まれる」(同18章)と約束されたのです(リレーのバトンタッチ!)。

 もっと分かりやすい例は「イサクと結ばれたリベカの場合」です。彼女が双子を産む前に、「兄は弟に仕える」(同25章)と告げられますが、それは「神の選びの計画が行いによってではなく、お召しになる方(神)によって進められる」ためです。「私はヤコブを愛し、エサウを憎んだ(放棄した)」(マラキ1章)という決断です(本家と分家の関係!)。

 「神に不正があるのか」と言う者もいるかも知れませんが、「決してそうではない」のです。神はモーセに「私は憐れもうとする者を憐れみ、慈しもうとする者を慈しむ」(出エジプト33章)と言って彼を励まされます。他方で神はファラオを立てて「私の力を示し…名を全地に知らせる」(同9章)役目を与えられます。「選びは私たちの能力や努力によらず、神の計画にのみ帰されるべきである。」(カルヴァン) 「私は何者なのでしょう」(同3章)と尻込みするモーセが選ばれます(→牧師の献身の証)。 

 選びは「神の憐れみによる」のであって、強い者は「かたくなされるのです。「真なる御神を頼める者」(讃304番)は、頑なな心を和らげられて、喜んで主に仕えるようになります(→映画『バベットの晩餐会』)。












2023.8.20



つまずきの石につまずいた…」 

         ローマ91933


 パウロはユダヤ人たちの気持ちに寄り添うようにして、彼らの失敗の原因を考えます。神はこれまで忍耐して来られたが、これからは異邦人も神の民になるのだから、つまずきから早く立ち直って欲しいと語ります。

 神の選びの説明を聞いて、ユダヤ人の中には「神の御心に誰が逆らうことができようか」と「神に口答えする」者もいます(悪童!)。「陶工は同じ粘土の塊から…尊い器…卑しい器作る権限がある」(エレミヤ18章「陶工の家」ように、神は「怒りの器を寛容をもって耐え忍び…憐れみの器に対して…栄光を知らせ」ようと考えておられるのです。

 神は「憐みの器」として、「我が民ではない者…愛されなかった女」(→ホセア1章「淫行の女」と「淫行の子」)を受け容れられます。それだけでなく、アッシリアに攻められて風前の灯のようになった時でもなお、「万軍の主が私たちの子孫を残された」(イザヤ1章)ように、「残りの者」(同10章)と呼ばれる少数者を選んで守ってくださるのです。

 結局、義を追い求めない異邦人が…信仰による義を得」たのに対して、「イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達し」ませんでした。彼らは「つまずきの石につまずいた」のです(バイクの試験の失敗。外国の軍隊に頼ろうとする人々に向かって預言者は「シオンにつまずきの石、妨げの岩を置く…信じる者は、恥を受けることがない」(イザヤ8章28章)と約束しました。「預言者を通して語られたのはキリストであり、彼においてそのことが成就した。」(カルヴァン)

 簡単につまずいてしまったユダヤ人たちに対して、パウロは「まだチャンスはある」と励まします。「いとも賢しイエスの恵み」(讃502番)とその救いを讃えつつ、「誰か漏るべき」と励ます者は幸いです。










2023.8.27

口でイエスは主であると告白し…」 

         ローマ101-13


    パウロは「福音に生きるのは誰か」を語るのですが、そのためには信仰が大切です(→今年の宮島聖会のテーマ「信仰によって生きる」)。彼はユダヤ人たちもイエスを主と信じて告白し、救いに入って欲しいのです。

 彼らは「神に対して熱心」ですが、それが「正しい(深い)知識に基づいていない」のが残念です(かつてのパウロも!)。「彼らは神の義を知らず…自分の義を求め」て律法の業に励んだのですが、「キリストは律法の終わり」(→マタイ5章「律法を完成する者」)となって、「信じる者すべてに義をもたらして」くださったのです(5章「義とされた」!)。「律法はあらゆる部分においてキリストを目指すものであった。」(カルヴァン)

 「律法による義」についてモーセは、「掟を行う者は…掟によって生きる」(レビ18章)と励ましましたが、死の直前になると「信仰による義」を語ります。「誰が天に上るだろうか…底なしの淵(海)に下るだろうか…言葉は…あなたの口に…心にある」(申命記30章)と、もっと楽な道を示しました(→「キリストの昇天と死者からの復活」を語るパウロ)。

 信仰にとって大切なのは、「口でイエスは主であると告白し…心で…信じる」ことです。つまり「人は心に信じて義とされ、口で告白して救われる」のです(信仰の告白と洗礼!)。「ユダヤ人とギリシャ人(異邦人)の区別」はなく、「同じ主が…すべての人の主」です(全人類の救い!)。「主の名を呼び求める者は皆、救われる」(ヨエル3章→使徒2章)というオープンな信仰です(→聖会講師の小泉牧師の教会)。

 パウロ自身が自分の事を「キリストの僕(奴隷)」(1章)と喜んで告白しました。「我が身の望みはただ主にかかれり」(讃280番)と信じて、「主イエスの外には依るべき方なし」と告白する者は幸いです。