2020.7.5



■「幼な子を取りあげて…」

            ルカ9:43b-50

 エルサレムへ向けて出発する時が目前に迫っています(→951)。すでに「仕上げ」の段階に達しているはずですが、問題の多い弟子たちです。それでも主は彼らを一人前の働き人にしたいのです。

 再びガリラヤに帰って来られた時(→マルコ930)、主は弟子たちに、「この言葉を耳におさめて置きなさい」と命じ、「人の子(主イエス)は人々の手に渡されようとしている」と、「第二回目の受難予告」をされます(→922「第一回目」)。しかし彼らは「なんのことかわからなかった」という有様で、「悟ることができなかった」ばかりでなく、「そのことについて尋ねるのを恐れて」います。「彼らの心は愚かな空想の厚いベールに包まれていた。」(カルヴァン)

  ペテロの家で、「弟子たちの間に…だれがいちばん偉いだろうか」という議論が始まると、主は「彼らの心を見抜き、ひとりの幼な子を取り上げ」られます(ペテロの息子!)。そして、「この幼な子をわたしの名のゆえに受けいれる者」こそ主に従う者だとされます(→牧師と教会の関係)。「いちばん小さい者こそ、大きいのである」として、弟子たちに幼な子のようであれと教えられます(良い意味で!)。

  若い弟子のヨハネは、「ある人があなたの名を使って悪霊を追い出している」ことを問題にし、「わたしたちの仲間でないので、やめさせました」と報告します。主はそれをたしなめて「あなたがたに反対しない者は…味方なのである」と教えられます(日本の伝道!)。

  「幼な子を取りあげて」とあるように、主はその子をひょいと抱き上げて見せられたのでしょう。そういう者でも主の役に立つのです。「主は命を与えませり」(讃332番)と歌いつつ、仕えましょう。

  




2020.7.12

 

■「天に上げられる日が近づいたので…」

           ルカ9:51-62

  

ここから主イエスの「エルサレムへの旅」が始まります(1928)主は覚悟を決めて進んで行かれますが、弟子たちは「親の心、子知らず」です。そういう彼らでも、主は一緒に来て欲しいのです。

「天に上げられる日」とは、十字架から昇天までを含む時のことですが、主はそれを知った上で、「その方へ顔を向け」られます。その旅のために、「使者たちを…サマリヤ人の村」に派遣されます(ユダヤ人から差別される人々!)。主はサマリヤ人を愛されますが、彼らは「イエスを歓迎しようとは」しません。「エルサレムに向かって行かれる」のを見て、「ユダヤ人のメシア」と思ったからです。

 「弟子のヤコブとヨハネとはそれを見」て怒ります(→マルコ317「雷の子」)。「天から火を呼び求め」て、エリヤのように彼らを焼き払おうとさえします(→列王下1章)。主は彼らをおしかりになっり、「ほかの村へ」行かれます。そんなヨハネが晩年になって、「サマリヤの女」(ヨハネ4章)に伝道される主の姿を書き残します。

 旅の途中で、主に従おうとする者もいます。熱心なだけの人には、「きつねには穴があり…」と生活の厳しさを教え、優柔不断な人には、「父を葬りに行かせて…」と親孝行を口実にすることを戒め(葬儀は大切!)、気が変わりやすい人には、「手をすきにかけてから、うしろを見る者」は真っ直ぐに神の国へ行けない、と警告されます(→田中忍師「これ以上、神の御心に逆らうことはできない」)

 この旅に向かう主には恐れがあります。「それは私たちに対する主の大きな限りない愛の証拠である。」(カルヴァン) 主は私たちの手を引いて、「ただわが主の道を」(讃285番)歩ませてくださいます。

  

 

 



2020.7.19

 

 

■「神の国はあなたがたに近づいた…」

            ルカ10:1-16


「エルサレムへの旅」の初めの頃、主イエスは72人を選んで、ユダヤの各地へ伝道に遣わされます(信徒伝道者!)。主は、すべての信仰者に、伝道のための働き人になって欲しいのです。

ガリラヤの各地に12弟子を遣わされた時(→9:1-6)とは別に、主は「(ご自分が)行こうとしておられたすべての町や村へ、ふたりづつ」遣わされます(→出エジプト記18章と24章、民数記11「長老たち」)。「収穫は多いが、働き人が少ない」(→マタイ9:37ので、牧師だけでなく、信徒も伝道するのです。「キリストは他の者たちを多数、第二の伝令者とされる。」(カルヴァン)

 伝道は「小羊をおおかみの中に送る」ような危険が伴いますが、伝道者は「平安がこの家にありますように」とあいさつします(平和の使者として!)。「家の人が出してくれるものを飲み食い」し(良い人間関係が伝道のカギ!)、「神の国はあなたがたに近づいた」という救いの接近のメッセージを伝えます(→マルコ1:15)。

 伝道が拒まれる場合には、「足についているこの町のちり」(→9:5)をぬぐって去り、次の町へ行くべきです。「その日(神の国が来る日)には、この町よりもソドムの方が…コラジンよ、わざわいだ……ツロとシドンの方が…耐えやすい」(→マタイ11章)と主は嘆かれます。それでも、「あなたがたに聞き従う者は、わたしに聞き従うのであり…拒む者は…わたしを拒むのである」と励まされます。

 すでに「神の国」に入った者として、人々を招いて神の国へリターンさせるのが伝道の働きです。「われに来よ」(讃517番)と招いておられる主の手伝いをするために選ばれる者は幸いです。




  

 

 


2020.7.26


■「あなたがたの名が天にしるされて…」

           ルカ10:17-24


72人の伝道は予想を超える結果になりました。彼らも喜びますが、主イエスも喜ばれ、12弟子たちも喜びます。しかし主は、私たちが救われて、天に名を記されていることを喜んで欲しいのです。

72人が喜んで帰って来」て、「悪霊(たち)までがわたしたちに服従します」と大きな成果を報告し、主も「わたしはサタンが…天から落ちるのを見た」と終末を見通して語られます(→黙示録12章「巨大な龍が投げ落される」)。彼らは「へびやさそりを踏みつけ…害を及ぼす者はまったく無い」と大きな力を与えられていますが、それを喜ぶよりも「名が天にしるされて」いることこそ喜ぶべきなのです(→出エジプト32章「神の書(ふみ)に記されたモーセの名」。

 主は「聖霊によって喜びあふれ」て、「天地の主なる父よ、あなたをほ(誉)めたた(称)えます」と、「幼な子」のような72人を用いた事を大声で賛美されます(自画自賛!)。彼らは「父(なる神)をあらわそうとして子(なる神)が選んだ者」であって、「知恵ある者や賢い者に隠し」た事(三位一体!)を知る者とされています。

   それから「(12)弟子たちに…ひそかに(彼らだけに)」語りかけられます(監督とスタッフ!)。「(旧約時代の)多くの預言者や王たち」が「見ることができず…聞けなかったこと」を、「見る目は、さいわい」です(→Ⅰペテロ1章「天使たちも見たかったこと」)。もっと幸いなのは「見たことはないが…愛している」(同上)者です。

 伝道の成功よりも「名が天にしるされて」いることが幸いです(→黙示2127)。「彼らは神によって戸籍簿に記入されている」(カルヴァン) 「ああ嬉し我が身も」(讃529番)と喜んで歌います。