2021.10.3


その所の名をベテル名づけた

       創世記210―2


父母の家から旅に出たヤコブはすっかり孤独になります。主なる神は弱っている彼に出会って励まされます。「ヤコブの夢」と呼ばれるこの時の出来事によって、彼は神との出会いを経験し、力を与えられます。

ヤコブは「べエルシバを立って、ハランへ向か」いますが、途中で日が暮れて「その所の石を取ってまくらとする」ような寂しい旅です。その夜彼は「一つのはしご(→新共同訳「階段」)が地の上に立って…頂は天に達し…神の使(天使)たちがそれを上り下りしている」夢を見ます(→礼拝「神と人との交わり」)。今は主イエスが仲介者です(→ヨハネ1:51)。

主なる神が「あなたが伏している(カナン)あなたに与えよう」とアブラハムへの祝福を繰り返され(→13章)、「わたしはあなたと共にいて…守り…この地に連れ帰る」と言葉をかけられます(礼拝における説教!)
「言葉のない夢は寒々しているが、主の御言葉は夢を活気づける魂である。」(カルヴァン) ヤコブは「主がこの所におられる」と知り、「これは神の家…天の門だ」と気付いて恐れるのです(「聖なる恐れ」!)。

主への応答として、ヤコブは「まくらとしていた石」を子孫への記念碑として立て、「その所の名をべテル(べス・エル「神の家」)と名づけ」ます。彼は祈って「神がわたしと共にいまし…食べるパンと着る着物を賜い…父の家に帰らせてくださる」ようにと「小さな祈り」をし、「すべての物の十分の一」を献げると誓います(献金!)。祈りと献金と賛美が、私たちの礼拝における「応答」(ドイツ語のAntwort)として大切です。

私たちの教会は「神の家」ですから、いつも礼拝のために開いておくべきです(→李牧師講演「主日礼拝を守るために」)。苦しみに会う時でも「主よ御許に近づかん」(讃320番)と歌いつつ礼拝する者は幸いです。







2021.10.10


ヤコブはラケルを愛した…

         創世記2―2


 べテルで神との出会いを経験した後、ヤコブはすっかり元気になってハランへ向かいます(→「旅を続けて」は「足を高く上げて」)。神は彼を導いて多くの祝福を与えられますが、そういう時こそ注意が必要です。

 ヤコブは「東の民の地」(ハラン)に着き、羊に水をやるために集まっている羊飼いたちに出会い、叔父のラバンが元気でいることを聞きます。さらに「彼の娘ラケルはいま羊と一緒にここへ来ます」と聞いて有頂天になり「日はまだ高い・・・行って飼いなさい」と余計な指図をするほど喜びますが、神の摂理によるのです(→エペソ3:20「思いを超えて」)。 

 そこへ「ラケルは父の羊と一緒にきた」ので、「ヤコブは進み寄って井戸の口から石をころがし…羊に水を飲ませ」ます(力持ちの大男!)。嬉しさの余り「ヤコブはラケルに口づけし、声をあげて泣」くほどです。ラバンにも会って身の上話をすると「あなたはほんとうにわたしの骨肉です」と認められ、「ヤコブは一か月の間彼と共にいた」とすべてが順調なようですが、余りも不用心です(→カルヴァン「右からの試練」)。

 計算高いラバンはヤコブに「どんな報酬を望みますか」と親切そうに言いますが、「ヤコブはラケルを愛した」ので「七年あなたに仕えましょう」と言うのを利用します。「レアは目が弱かった(→新共同訳「優しい目をしていた」)」とある姉娘のことをラバンは忘れていません。「ヤコブは姉の心を傷つけることによって罪を犯した。」(カルヴァン)。弱い人のことを思うべきです(→ヨハネ4章「サマリヤの女に同情する主イエス」)。

 ヤコブがラケルを愛するのは間違っていませんが、他の人の気持ちに気が付かないのは問題です(「自分の事しか考えない人」!)。そういう自分を反省しつつ「主よ、御手もて引かせたまえ」(讃285番)と歌うのです。






2021.10.17


名をユダと名づけた

       創世記22135


年が経って「ヤコブの結婚」の話になります(結婚のモラルが緩かった時代!)。ラバンはラケルとレアをすり替えます。レアは弱い立場ですが、主なる神はそういうレアに恵みの御手を差し伸べられます。

ヤコブが「期日になりましたから…」とラバンに約束の実行を迫ると、ラバンは「ふるまい」(大宴会)を設けた上で「夕暮れなったとき、娘レアをヤコブのもとに連れて」行きます。翌朝になってそれに気づいたヤコブは「どうして…欺いたのですか」と抗議しますが、レアの気持に気付かず、エサウを欺いたことも忘れた彼は、賢いとは言えません。

ラバンは「妹を姉より先にとつがせる事はわれわれの国ではしません」とごまかしの理屈でヤコブを黙らせた上で、「一週間を過ごしなさい。そうすればあの娘もあなたにあげよう」と、ラケルへの愛を利用します。その上「更に七年わたしに仕えなければならない」という無茶な条件を出しますが、「レアよりもラケルを愛し」たヤコブはそれに従います。しかし、だましたラバンは最後には娘たちに捨てられます(納得!)。

「主はレアがきらわれるのを見て、その胎を開かれ」たので、彼女は「ルベン…シメオン…レビ」と次々に男の子を産みます(「なさい男の子です」「主は聞かれた」「夫も親しむだろう」という意味)。「ユダ」については「わたしは今、主をほめたたえる」と信仰者らしい言い方をします(→49章「12部族のリーダー」)。「おそらく彼女は自分が嫌われているのを知って…祈りに向かったのであろう。」(カルヴァン)

レアは困窮した時に神に助けを求め、主は恵みの御手を差し伸べられます(→「ブラジル移民船上のキリスト」)。「御神の恵みは量り知られず」(讃86番)と歌うように、主の恵みは私たちの思いを超えています。








2021.10.24

 

名をヨセフと名づけ

         創世記3024


ここでラケルが物語の中心になります。姉のレアが次々と子を産むのに対して、彼女は嫉妬していろんな手段を使って対抗しようとします。主なる神は、そういう問題のあ彼女も憐れんで恵みを与えられます。

「ラケルは自分がヤコブに子を産まないのを知った時、姉をねたんで」とあります(彼女にとって初めての嫉妬心!)。「子どもをください…死にます」と叫ぶ彼女に、ヤコブは「わたしが神に代わることができようか」と怒って言います(聖なる怒り!)。それでもつかえめによって子を得ようとして(→16章「つかえめハガル」)ビルハをヤコブに与えて、ダンとナフタリを得る激しいラケルです(→使徒8章「迫害者パウロ」。

負けたように見えるレアですが、ジルパをヤコブに与えてガドとアセルを得ます。息子のルベンが見つけた「恋なすび」(→雅歌7章)を欲しがるラケルと交渉してヤコブを取り戻し、イッサカルとゼブルンそれに娘のデナ(→34章)を得るというように、レアは迷信に惑わされません。
 そうなった時、「神はラケルに心をとめられ、彼女の願いを聞き、その胎を開かれ」ます。「ラケルが子のない苦しみを長く味わった後に、神の祝福が遅れて与えられた。」(カルヴァン) 彼女はその子の「名をヨセフと名づけ」ますが、その名には「神はわたしの恥をすすいで(アーサフ)くださった」という意味と共に「なおひとりの子を加えられる(ヤーサフ)ように」という彼女の祈りが込められています(→35章「ベニヤミンを産むラケル」)。ラケルは変わります(→使徒9章「パウロの回心」)。

ラケルの産んだヨセフがイスラエルの歴史に大切な働きをします(37章以下「ヨセフ物語」)。「罪人のかしら」のパウロのようラケルを用いられる神を見て「主のみ恵みは限りなきかな」(讃249番)と歌います。






2021.10.31

 

強いものはヤコブのものとなった…」

        創世記302543


 ここからはヤコブがカナンへ帰ろうとする話になります。そういう願いを舅のラバン簡単には許そうとしません。ヤコブは自分の財産を得ることを計画し、主なる神は弱い立場の彼に味方して豊かに祝福されます。

 「ラケルがヨセフを産んだ時」には約束の14年が来ていました。ヤコブはラバンに「わたしを去らせて、わたしの故郷…へ行かせてください」とカナンの地に帰ろうとします(→28章「べテルの祝福」)。家族への責任から財産分与を願いますが、ラバンは「主があなたのゆえに、わたしを恵まれる」ことを知っているので「とどまってください」と引き止めます。

「いつになったらわたしも自分の家を成す」のかがヤコブの問題です。

 しぶしぶと「何をあげようか」と問うラバンに対して、「わたしに一つの事をしてくださるなら」と簡単な条件を申し出る賢いヤコブです。「あなたの(羊と山羊)の群れ…の中から…ぶちとまだらの羊…やぎの中のまだらのものとぶちのもの…をわたしの報酬としましょう」と、極めて少数の方を選びます。ラバンはそれも「子らの手にわたし…ヤコブとの間に三日路の隔たりを設け」ます(→ローマ12章「善をもって悪に勝つ」)。

 ヤコブは「はこやなぎ(ポプラ)、あめんどう(アーモンド)、すずかけ(プラタナス)の木…皮をはいで白い筋をつくり」それを羊と山羊に見せてぶちやまだらの子を産ませます(胎教?)。さらに「強いものが発情した時」にそれをして「強いものはヤコブのもの」となり、「この人は大いに富み」ます(→ローマ8章「神がわたしたちの味方であるなら」)。

 「天の羊飼(神)が私たちを見守り助けて下さるのだから、私たちは恐れないようにしよう。」(カルヴァン) 「山辺に向かいて」旅人は恐れますが、「御神より助けぞ我に来る」(讃301番)と歌って勇気を奮います。