2020.5.3

 

■「耐え忍んで実を結ぶ

         ルカ818


  ガリラヤ伝道が後半に入り、ルカはその頃から本格的になる主イエスの伝道活動の話を続けます(8章~9章50節)。主は弟子たちに、伝道は困難でも、忍耐強く取り組んで欲しいと願われます。    

「そののちイエスは…巡回し…12弟子もお供し」ますが、「マグダ」(ガリラヤ湖周辺の町)出身で「七つの悪霊を追い出してもらった」マリヤ、「ヘロデの家令(執事)クーザの妻ヨハンナ」、「スザンナ」などが、「自分たちの持ち物をもって一行に奉仕した」と、ルカは婦人たちの働きを評価します(→10章のマルタの仕事)。

 その頃も「大ぜいの群衆が…押し寄せて」来ます(→伝道の書11章「パンを水の上に投げる」ような伝道)。主は「一つの譬」を話されます(→マルコ4章、マタイ13章、「種まきの譬」)。「見ても見えず、聞いても悟らないために」(→イザヤ6章)と言われるほど困難な伝道ですが、「百倍もの実を結ぶ」ような「良い地」に落ちた種が、「耐え忍んで実を結ぶ」ことを信じて伝道すべきです。「福音はその力に関しては常に実を結ぶ種である。」(カルヴァン)

伝道者は、「燭台の上に置いた」あかり(ランプ)のように、「はいって来る人たちに光が見えるように」し、「(心の中に)隠されて…秘密にされているもの」を明らかにすべきです(讃55番「心の闇に照り出でたまえ」)。そのためには、「どう聞くかに注意」しないと、「持っていると思っているものまで取り上げ」られます(→改革派教会のモットー「御言葉によって絶えず改革され続ける教会」)。

 御言葉の種を蒔くと共に、育てて実を結ばせるためには忍耐が必要です。「注げ命の真清水を」(讃217番)と励む者は幸いです。









2020.5.10



「あなたがたの信仰は、どこにあるのか

         ルカ8:19ー39


    ガリラヤ伝道の後半になると、だんだんと弟子たちの役目が大切になって来ます(「見習い」「実地訓練」)。主イエスは、弟子たちが主の大きな力を信じて、恐れず伝道に立ち向かって欲しいのです。

    その頃、「イエスの母と兄弟たちとがイエスのところに」訪ねて来ます(マルコ3章「気が狂ったと思った」)。心配して来てくれた彼らについて、主は「わたしの兄弟とは、だれのことか」と言い、「神の御言を聞いて行う者」こそ本当の家族だとされます。

    同じ頃、主は「(ガリラヤ)湖の向こう岸へ渡ろう」と言って弟子たちと舟で出発されます(外国人伝道!)。途中で「突風が湖に吹きおろし危険に」なったので、弟子たちは「死にそうです」と騒ぎままが、主が「風と荒波とをおしかりになるとなぎ(凪)に」なります。「キリストの力が感情のない被造物にまで行き渡ることを示された。」(カルヴァン) 弟子たちは「いったい、このかたはだれだろう」と驚き、本当の助け手を知ります。

 対岸の「ゲラサ人の地」(マルコ5章「デカポリス」)で、主は「レギオン(6千人の歩兵大隊)」と名乗る悪霊につかれた男と出会い、「その人から出て行け」と命じられます(435)。悪霊たちは「おびただしい豚」の中に入り湖で溺れます。癒された男は「んなに大きなことをしてくださったか」と「イエスがして下さったこと」を語ります(大阪から献身した大江寛人宣教師!)。

 弟子たちは不信仰ですが、彼らの舟(教会)に「わたしもその中にいる」(マタイ1820)と言われる主を信じる信仰を与えられます。「インマヌエルの君」(讃161番)を信じる者は大丈夫です。










2020.5.17



■「娘よ、起きなさい…」
         ルカ8:40-56

 「ゲラサ人の地」から帰って来られると、待ち受けていたように、人々が助けを求めて主イエスのもとに来ます。主は、苦しんでいる者たちを、一人も見捨てないで助けようとされます。
 カペナウムの会堂(シナゴーク)に、「ヤイロという名の…会堂司(かいどうづかさ)」がいましたが、彼は身分も忘れて「イエスの足もとにひれ伏して」(土下座して!)お願いします。「12歳ばかりになるひとり娘が…死にかけて」いるのです(→マタイ9章「娘がただいま死にました」→彼はそれでも主を信頼する者に変わる)。
 そこへ行く途中、「12年間も長血をわずらって…だれにもなおしてもらえなかった女が…(主の)み衣のふさ(→民数記15:38)」にさわってたちまち癒されます。「キリストは自発的に、また意識的に、この女を癒された。」(カルヴァン) 主は、「わたしにさわったのは、だれか」と言われ、彼女が名乗り出るまで待って、「あなたの信仰があなたを救った」のだとされます(泥棒猫のようではなく!)。
 手間取っているうちに娘は死にますが、「恐れることはない、ただ信じなさい」と主は言われ、「ペテロ、ヨハネ、ヤコブ」と娘の父母だけを連れて家に入られます。「だれも一緒にはいって来ることをお許しにならなかった」(人数制限!)のは、正確に見て伝えて欲しかったからです。「娘よ、起きなさい」と主が命じられると、「霊がもどってきて…即座に立ち上」がります(ペテロたちは見ていた!)。
 ペテロは「タリタ・クミ(娘よ、起きなさい)」(マルコ5:41)という主の声を覚えています(→使徒9:40)。誰も見捨てない「友なるイエス」(讃312番)に祈ればよいのです(命の線引きなし!)。








2020.5.24



■「弟子たちは出て行って…
            ルカ9:1-9

 9章に入ると、「ガリラヤ伝道時代」の最後の頃になって、主イエスは弟子たちを「実習」させられます(教育実習!)。主は弟子たちを、実際に、具体的に伝道をする者として育てたいのです。
 主は「12弟子を呼び集めて」、伝道に派遣されます。御自分が神の御子としてなさったように、「悪霊を制し、病気をいやす力と権威」を授けられます。「弟子たちが…権威が欠けることがないように、キリストは聖霊の力を与えられる。」(カルヴァン) 体と心の癒しのために祈ること(牧師の大切な仕事!)と共に、「神の国を宣べ伝え」て、人々を神の国に招くべきです(→マルコ1:15)。
 伝道旅行の時、信者たちの家を拠点にするので、「旅のために何も…つえも袋もパンも銭も…下着も二枚は持つな」と言われます(→マタイ6章「あすのことを思いわずらうな」)。「どこかの家に…留まって」伝道し、「迎える者がいなかったら…足からちりを払い落」して主に委ねて前進すればよいのです。弟子たちはそうします。
 自分の領地内での出来事を耳にして、「領主ヘロデ(アンティパス)は…あわて惑って」しまいます。人々は主イエスのことを、「エリヤが現れた」(→マラキ4章)とか、「昔の預言者のひとり(エレミヤ?)が復活した」とか言いますが、ヘロデ自身は、「わたしがすでに首を切った」あの洗礼者「ヨハネが死人の中からよみがえった」のではないかと恐れ、「イエスに会って」みようとします(殺すため!)。
 実習のために、「弟子たちは出て行って」伝道します。使い古しの「つえ一本」(マルコ6:8)だけを持って、「信仰こそ旅路を導く杖」(讃270番)と歌いながら、伝道の旅を続けるのです。











2020.5.31



■「一同は聖霊に満たされ…」
          使徒行伝2:1-13

 ペンテコステ(五旬節)の日に(→申命記16章「三大祭」)、主イエスが約束された聖霊が来られます。聖霊なる神は、使徒たちを用いて、いろんな言葉を語る人たちに福音を伝えようとされます。
 その時の様子は、主が使徒たちに「聖霊を受けよ」(ヨハネ20章)と言って息を吹きかけられたように、「激しい風が…家いっぱいに響き…舌のようなものが、炎のように分れて…」と、聖霊の大きな力が与えられます。「使徒たちの声が、人々の心を燃え立たせ、すべてのものを清め、新しくする火であることが示された。」(カルヴァン)聖霊に満たされた彼らは「他国の言葉で語り出し」ます。
 エルサレムの神殿には、「天下のあらゆる国々から」この祭のために帰って来た「信仰深いユダヤ人たち」(ディアスポラ)が集まっていました(→「パルティア人…アラビア人」)。彼らは、使徒たちが「ガリラヤ人」なのに「彼らの生れ故郷の国語」で話しかけて来るのに驚き、心を動かされます(外国で母国語を聞く喜び!)。
 使徒たちは、使い慣れない外国語で「神の大きな働きを述べ」たのですが、それはちゃんと伝わります(ヨハネ3章16節を語るだけでも十分!)。中には「あの人たちは新しい酒で酔っているのだ」と嘲る者もいますが、多くの人たちは福音に心を開きます。このあとペテロがユダヤの言葉で説教し、「この曲った時代から救われよ」と勧めると、三千人もの人たちが「仲間に加わった」のです(40、41節)。
 「一同(彼ら皆)は聖霊に満たされ」とありますが、今の私たちもその仲間です。「北の果なる氷の山」から「真砂の原」まで、世界中に出て行って「救いの光」を伝える者は幸いです(讃214番)。