2019.6.2



■「すべてあなたが見わたす地

            創世記134-18


 ロトたちが去って行ったあと、アブラムはすっかり弱ってしまいます(「空の巣」症候群!)。主なる神はアブラムに語りかけ、大きな約と使命を改めて与えられ、彼は励まされ立ち上がります。

 「ロトがアブラム別れたに後」に、すっかり気落ちしているアブラムに「主は言われ」ます。「悲しみを和らげ、癒す最善の治療方法は神の言葉のうちに置かれている。」(カルヴァン)下ばかり見ずに「目をあげ」、狭い所でなく、「あなたのいる所から…見わたし」て広く見、今だけでなく「永久に」(長い時間)取り組むべきことを思い出して欲しいのです(→12:7)。アブラムはカナンの全地という大きな舞台に立たされて、主役を演じるのです(神の根本治療!)。

 ロトが取り去られて、改めて主は「あなたの子孫を地のちりのように多く」すると言われ、「その地をたてよこに行き巡りなさい」と、与える土地を具体的に示されます。アブラムに与えられた約束は、同時に使命になります(→広い田畑を相続した者は耕すべきだ!)。

 使命を再確認したアブラムは、すぐに「天幕を移して」、仕事にかかります(信仰の父!)。カナン全体を見わたして、ほぼ中心となる「ヘブロンにあるマムレのテレビンの木のかたわら」に拠点を移すのです(→14:13)。この場所が、これから彼が活躍する舞台になります(→18:1)。これまでの失敗を教訓にしてやり直すのです。

 いつの間にか小さな世界に閉じこもっていたアブラムに、主は「目をあげて…見わたしなさい」と命じられます(→ヨハネ4章「サマリヤ伝道」)。「み恵みを身に受くれば、我らも今は強し」(讃448番)と歌いつつ、青年のような気持で立ち上がるのです。




2019.6.9



■「聖霊があなたがたにくだる時

             使徒行伝1

 主イエスは、復活された後の40日間、地上に残っておられました。そして、昇天を前にして弟子たちに語り、やがて聖霊が来られて大きな力が与えられ、世界伝道が始まると約束されます。

 復活の主は、「自分の生きていることを数々の確かな証拠によって示」され(→ルカ24章「焼いた魚を食べられる主」)、「40日にわたっ…神の国のことを語られ」ます。「キリストは何回も現れられたので、疑う余地を彼らに与えられなかった。」(カルヴァン)

   主は弟子たちに、「ルサレムから離れないで…父(なる神)の約束を待っている」ように、と命じられます。彼らは、「間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられる」でしょう(→ルカ3:16)。彼らにとって、エルサレムは居心地が悪い場所ですが、そこで待たなければなりません(伝道の拠点→「継続は力なり」)。

 その頃、弟子たちはまだ、「イスラエルのために国を復興なさるは、この時なのですか」と問うほどに、自己中心的です(→マルコ10章「ゼベダイの子たちの願い」)。それについて主は、「あなたがたの知る限りではない」とたしなめつつ、聖霊降臨によって「力を受けて…地のはてまで、わたしの証人となる」と励まされます。彼らに与えられた働きは「一日仕事ではない」(カルヴァン)のです。

 「使徒行伝」(→新改訳「使徒の働き」)は、使徒たちが働いた記録のようですが、厳密に言えば、昇天された主イエスが聖霊と友に働いて、地上にいる弟子たちを用いてされたことの記録です。伝道は楽しい仕事なのです。「御霊よ降りて昔のごとく」(讃499番)と歌いつつ、「今しもこの身に満ちさせ給え」と祈って働くのです。


2019.6.16



■「アブラムの弟の子ロトとその財産

             創世記16

 紀元前18世紀頃の世界で、メソポタミア地方の大国が地中海沿岸の小国を攻める話です(東軍と西軍!)。その戦いの中で捕虜となった弟の子ロトを、アブラムは神からの力を受けて救い出します。

 「シナルのアムラペ」(バビロン王ハムラビ?)等4人の王が「ソドムの王ベラ」等5人の王を攻撃します(銅の貢納の問題?)。シデムの谷」(死海南部の低地)が決戦の地となりますが、東軍の圧倒的勝利となり(関ヶ原!)、その混乱の中で「ソドムに住んでいた…ロト」は敵軍の捕虜として連れ去られます。彼は、ソドムの人たちに感化を与えるより、感化されてしまったのです(→13:13)。

 ヘブロンに住んでいた「ヘブルびとアブラム」にそのニュースが告げられた時、彼は「アモリびとマムレのテレビンの木のかたわらに住んで」から、かなり時間がたっていたようです。彼らと「同盟」するほど親しい信頼関係が出来ています(町内会の仲間のように!)。

 アブラムは迅速に行動します。「訓練した家の子318人」とは、「アブラムの手許で育てられ…彼の信仰によって励まされ…どんな危険も忍ぶ覚悟が出来ている者たち」(カルヴァン)でした(結束の強い教会!)。アブラムは彼らと共に敵を夜襲し、「身内の者ロトと…女たちと民とを取り返」すことに成功します(神の恵みによって!)。

 アブラムにとって、「財産」はどちらでも良かったのです。「弟の子ロト」と彼の家族と民とを取り返すために、大きな危険も恐れないで戦うのです(心の暖かい信仰者!)。ルターも、「陰府(よみ)の長(おさ)」(悪魔)の大軍に立ち向かいつつ、自分は弱くても、「神は我がやぐら、我が強き盾」(讃276番)と歌って力を得ます。


2019.6.23




■「糸一本でも、くつひも一本でも

           創世記24

  

   アブラムが戦いに勝って帰って来た時、2人の人物が彼を迎えに出て来ます。彼の生涯には、いろんな人物が影響を与えています。主なる神は、そういう交流の中で教え導き、成長させられるのです。

 「アブラムが…王たちを撃ち破って帰った時」、彼はすっかり有名人になっています。「ソドムの王は…王の谷(エルサレムの町の下にあるケデロンの谷)に出て彼を迎え」ます。わざわざシデムの谷から敬意を表するために来たのです(→14:10)。信仰のない人でも、拒まずに受け容れることが大切です(伝道のチャンス!)。

   「サレム(エルサレム)の王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来」て、アブラムの一行をねぎらいます。彼は「いと高き神の祭司」として「アブラムを祝福」します(牧師の祝祷のように!)。さらに「あなたの敵をあなたの手に渡された…神があがめられるように」と栄光を神に帰すべきことを教え、アブラムは「彼にすべての物の十分の一を贈」って神に感謝します(礼拝献金!)。この不思議な人物は、「義の王」(ヘブル7:2)なる主イエスを指し示しています。

 一方、世俗的なソドムの王は、「わたしには人をください。財産はあなたが取りなさい」と気前の良い申し出をしますが、アブラムは用心深く断ります。その反面、「ただし若者たち…にはその分を取らせなさい」と、彼らに対する配慮は忘れません。「彼は、自分の気前良さが、同盟者の損害になることを望まない。」(カルヴァン)

 多くの人々とつき合う中で、アブラムは「糸一本」のような小さなものでも慎重に扱うことを学びます。「正しく清くあらまし」(讃452番)と歌いつつ、信仰者らしく歩みたいのです。





2019.6.30



■「アブラムは主を信じた

            創世記


 大きな危険を犯して救い出したロトが、もとのソドムに帰って行ったあと、アブラムの心は弱ります。自分の子どもがいないという現実に不安を感じる彼に、主は改めて約束を与え、彼は信じるのです。

 「これらの事の後、主の言葉が…アブラムに臨んだ」のは、そういう彼の不安な気持を知っておられるからです(私たちも!)。主なる神は、「恐れてはならない…わたしはあなたの盾…あなたの受ける報いは、はなはだ大きいであろう」と言って励まされます。「神を慈しみ深い御方として持つ時(→16篇「主はわたしの嗣業」)、私たちは本当に幸いである。」(カルヴァン)

 そういう主の優しさに触れた時、アブラムは自分の心の中にある不満を訴える勇気を得ます。「主なる神よ、わたしには子がなく…」と言いたかったのです(→13:16)。自分なりに考えて、「わたしの家を継ぐ者…エリエゼル…家に生れたしもべ」を後継者に決めています。

 主は、「あなたの身から出る者があとつぎとなるべきです」、と約束れます(→マタイ7章「求めよ、さらば与えられん」)。

 主は彼に星空を見せて、「あなたの子孫はあのようになる」と言われます。その言葉を聞いた時、彼は単純に信じます。そして、「主はこれを彼の義と認められた」と、喜んで合格とされます(→ローマ書4:3「信仰義認」のモデル)。それで十分なのです。

  「主を信じた(アーマン→アーメン)」とは、「真実とする」ということであり、主が最も喜んでくださることです。「主の尊きみ言葉は我が命の基」(讃284番)と信じる者は、「(シメオンのように)老いの坂を登り行き、頭の雪積る」年齢まで、安心して生きます。