2023.12.3

 

人は、新たに生まれなければ

           ヨハネ3


  今年のクリスマスシーズンには、ヨハネ福音書から説教します(→「クリスマスのご案内」)。使徒ヨハネは、主イエスが救いを求めて来たニコデモにストレートに救いの道を教えられた、と語ります。

  ニコデモは「ファリサイ派の一人」として宗教的であり、「ユダヤ人たちの指導者(別訳「議員」)であった」(→七十人議会の議員)として社会的にも尊敬される人物です。後に彼は「まず本人から事情を聞き…」(7章)と言って主を弁護したり、十字架から遺体を取り下ろす時には「没薬とアロエ」(19章)を持って来るほど、良心的で優しいのです。

  「この人が、夜イエスのもとに来」ます(ニコデモの苦い思い出!)。「先生(ラビ)…あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています」と尊敬しつつも、「神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるし、誰も行うことはできない」と、主の奇跡に関心があるようです(→2章「しるしを見て信じる人々」)。この時の彼は未熟でした(→Ⅱコリント1章「ユダヤ人はしるしを求める」)。

  「イエスは答えて…」とあるように、主はニコデモの心の中の質問に率直(ストレート)に答えられます。「よくよく言っておく」と念を押されます。「キリストは『よくよく』と二度繰り返されるのだが、それはニコデモの心を目覚めさせるためである。」(カルヴァン) 「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言って、彼を神の国に招かれます(マルコ1章「神の国は近づいた」)。

  主イエスは率直にニコデモに語りかけて、神の国に入るように招かれます。「天なる喜び」(讃352番)携えて天から来て下さった主イエスに向かって、「救いの恵みを…宿らせ給え」と歌う者は幸いです。






2023.12.10


神の国に入る

          ヨハネ3


  主イエスはストレートにニコデモを救いの道へと招かれますが、彼はとまどいます(→マルコ10章「子どものように」)。主は、人間は誰でも聖霊によって神の国で生きる新しい命を受けることができる、と語られます。

  主の招きに対してニコデモは「年を取った者が…もう一度、母の胎に入って生まれることができるでしょうか」と躊躇します(→マタイ19章「金持ちの青年」)。神の国に入りたい気持ちはありますが、そのためには自分の背負っている多くのものを捨てて、人生のスタートからやり直さなくてはならないことになるのでしょうか、と不安を訴えるのです。

  主は「よくよく言っておく」と繰り返して、「誰でも水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない」と説明されます。「水は聖霊であり、私たちを清め、干からびている心に天の命の力を与えるのである。」(カルヴァン) 「肉から生まれたもの」はアダムの命と同じであり、「霊から生まれたもの」はキリストの命と同じになります(→ローマ5章「一人の人によって罪が世に入り…一人の人…を通して…命にあって支配する」→創世記2章「命の息を吹き込まれ…生きる者となった」)。

  ニコデモの落胆ぶりを見て、主は「驚いてはならない」(→ガラテヤ1章「私は驚いています」)と、安心させようとされます。「風(プネウマ霊)は思いのままに吹く…霊から生まれた者も…そのとおり」だとして、すべては目に見えないままで私たちに働きかけてくださる聖霊の働きによるのだから大丈夫だと教えられるのです(クリスチャン生涯!)。

  私たちを神の国に入れるために、神の御子が来てくださいました(クリスマス!)。「ガリラヤの風かおるあたり」(讃228番)で「天つ御国は近づけり」と言って招いてくださる主の御声に応える者は幸いです。

 





2023.12.17


「天から降って来た者

        ヨハネ315


  主イエスが心を込めて神の国の事を説明されても、ニコデモはなかなかそれに応じません。主は天から降って来られた神の御子であって、私たちに永遠の命を受け取って欲しいのです(クリスマスプレゼント!)。

  主が神の国に招かれても、ニコデモは「どうしてそんなことがありましょうか」と、なかなか頑固です(年を取ると!)。主は「イスラエルの教師でありながら…」と言われますが、それけ余計に難しいのです。「私たちは…証している…あなたがたは…受け入れない」と、他の仲間を含めて言われても、彼にも都合があったのでしょう(→押部兄の証し)。

  主イエスとしては、ここまでは「地上のこと」(序の口)でした。ここからは「天上のこと」(天国のこと!)を話したいのです。主は「天から降って来た者、すなわち人の子」であって、他には「天に上った者は誰もいない」と言われます(→1章「天使が…昇り降りする」)。昔、ヤコブはそれを見て勇気百倍したのです(→創世記28章「ヤコブの夢」)。

  主はやがてご自分が「モーセが荒れ野で蛇を上げたように…上げられねばならない」と十字架を予告されます(→民数記21章「青銅の蛇」)。「青の蛇の中に有毒なものは何もなかったように、キリストも私たちを癒すために罪のない肉体をまとわれた。」(カルヴァン→ヘブライ書4章「罪のない大祭司」) 十字架の主を見上げて信じる者は皆「人の子(イエス)によって永遠の命を得る」のです(→20章「福音書記者の執筆目的」)。

 「天から降って来た者」である主は「あなたがたのために場所を用意しに行く」(14章)と言って天に帰られます。天使たちと共に「神のみくらを離れて降り」(讃98番)給うた御方を賛美する者は幸いです。

 








2023.12.24


「神は…世を愛された…」

            ヨハネ316



 永遠の命を巡る主イエスとニコデモの問答は終わり、16節からは使徒ヨハネの説明です。彼は、神が御子をこの世に送られたのはすべての人に永遠の命を与えたいからだ、と語ります(→ルター「小さな福音書」)。

 原文では先ず「は…愛された」とあります(三つのキーワード)。「神」は世界を造られた唯一の御方であり(「神々」ではなく!)、「世」は神に敵対する事さえする人間の世界です。「愛する」とは、そんな人間でも対象とする神の大きな愛です(→マタイ5章「悪人にも善人にも太陽を昇らせ…雨を降らせてくださる神」→「敵を愛し…祈りなさい」)。

 次に「その独り子お与えになったほどに」です。自分の子どもは「目に入れても痛くないほど可愛い」と言います。父なる神にとって主イエスは「父の懐(ふところ)にいる独り子」(ヨハネ1章)です。それを「与える」というのは、自分が死ぬよりつらいはずです(ゲッセマネや十字架で苦しむ御子を見ている父なる神!)。「人間は神から愛されている事を容易に納得しないので、神は独り子を与えられた。」(カルヴァン)

 最後に「御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」だとその目的が明らかにされます。ヨハネはパウロと同じく、皆が福音を「信じて」欲しいのです(→ローマ1章「福音は信じる者すべてに救いをもたらす神の力」)。父なる神は人間が何も知らないで「滅びる」のではなく、永遠の命を「得て」生き生きと生きて欲しいのです(大阪教会も!)。

 主イエスはペトロに「私を愛しているか」と質問されますが、その時の彼は「あなたが好きです」と答える事しかできません(→ヨハネ21章「大きな愛と小さな愛」)。彼もやがて大きな愛に生きる者になります。「神の御子は…生まれたもう」(讃111番)と歌って大きな愛を喜ぶのです。

 










2023.12.31


光が世に来たのに…」

         ヨハネ317-21


 使徒ヨハネは、父なる神が独り子である御子を与えられたのは世の人々に永遠の命を与えるためだったと語りました(→三位一体の神)。神は御子を光として送って、皆がその光を受けて輝く事を願っておられます。

 「神が御子を世に(大使のように)遣わされた」目的は、「裁くためではなく…世が救われるため」でした。旧約の時代にも、神は一部の人間を選んで祝福を与えられましたが、新約の時代には、御子を遣わしてすべての人を救おうとされたのです(→ローマ3章「人は皆…神の栄光を受けられなくなって…イエスの贖いの業を通して…価なしに義とされる」)。

 せっかくそういう助けが与えられたのに(救命用ブイ)、「神の独り子の名」を「信じない者はすでに裁かれて」います。「光が世に来たのに…光よりも闇を愛した」ことが「もう裁きになっている」のです。「光に対する憎しみは、自分の有罪性を感じている心に由来する。」(カルヴァン→警官を恐れる悪人)。「悪を行う者は…その行いが明るみに出されるのを恐れて…光に来ない」のです(→創世記3章「木陰に隠れる二人」)。

 しかし「御子を信じる者は裁かれない」のです(主イエスの弟子たち!)。神の御子は赤ちゃんとしてこの世に来られ、ガリラヤ湖のほとりで伝道を始められ、地元の若者たちがその弟子となります。素朴ながら「真理を行う者たちは光の方に来る」のです。「その行いが神にあってなされたことが、明らかにされ」ます(→マタイ5章「世の光である」)。

 「光が世に来た」のに信じない者がいる中で、信じるように変えられ者もいます(→Ⅰコリント12章「聖霊によって『イエスは主である』と言う者」→牧師の体験)。「主は御父のもとを離れ」(讃332番)と歌いつつこの御方のもとに来る者のために、いつも光を輝かせる教会でありたい。