2021.5.2



何の権威によって…

        ルカ福音書20章1〜8節


  主イエスエルサレムの町で数日を過ごされます(→20:37「昼のあいだは宮で教え」)。ここでは「権威問答」がなされます。主は悪意をもって迫ってくる相手にもきちんとご自分のことを知らせられます。

 この時も主は「宮で人々に教え、福音を宣べ伝えて」おられます(説教者イエス!)。頭の固いユダヤ人指導者たちが来て「何の権威によって…」と、主の行動(宮清めや説教)が正当な権威に基づいていないと批判します。「そうする権威をあなたに与えたのはだれですか」と言うのですが、彼らはユダヤ人の伝統(ユダヤ教)が正しいと信じているのです(→日本の伝統の問題→「青天を衝く」の若者たち!)。「彼らは教理(教えの内容)については論じようとしない。」(カルヴァン)

 それに対して主は賢く対処されます(一休さんのように!)。「ひと言たずねよう」として、「(洗礼者)ヨハネのバプテスマは、天からであったか、人からであったか」と問い返されます(変化球勝負!)。ご自分はそのヨハネの権威を認めて洗礼を受けた者です(→第3章「主イエスの洗礼」→カナダからのディック宣教師に導かれた牧師夫妻)。

  こうして形成は逆転します。彼らは民衆が「ヨハネを預言者と信じている」のを知っているので、はっきり答えない道を選びます。主は「わたしも…言うまい」と言われますが、ご自分の権威が「天(神)から」であることは明らかにされたのです。この場合、指導者たちよりも民衆の方が柔軟性があります(→松山静牧師「着物と洋服の比較」。

 時代が変わっても変わることのない権威を持つ神の御子に出会う者は幸いです(戦前と戦後!)。「永遠(とわ)に世を(し)らすイエス君」に「冠(かむり)をささげて」(讃162番)賛美するのです。





 




2021.5.9


 

「家造りらの捨てた石…」

          ルカ20:9-18


  主イエス「ぶどう園の農夫たちの譬」を「民衆」に語られますが、民の指導者たちも聞いています(→19節)。主は彼らによって殺されることになるのですが、私たちの救い主となってくださる御方です。

「ある人がぶどう園を造って農夫たちに貸し…」というのはイスラエルの歴史の復習です(→イザヤ5章「ぶどう畑の歌」)。モーセの時以来、祭司が指導者となり神殿礼拝も行われますが、彼らはその務めを怠り主人(神)に「収穫の分け前(小作料)を出」しません。「祭司たちが務めを怠った時、預言者たちがぶどう園の雑草を除くために遣わされた。」(カルヴァン)。しかし「農夫たちはその僕を袋だたきにし」て追い返し続けます(エリヤからエレミヤまで!)。「ああエルサレム…預言者たちを殺し…」(13:34)と、主が嘆かれた通りです。

  そのあと「ぶどう園の主人は言った」とあり、ルカは神の心の中にまで踏み込みます。「どうしようか」と悩んだ末に「そうだ(これは原文にない!)、わたしの愛子をつかわそう」と決断されます。「敬ってくれるだろう」というのは「お人好し」と言わざるを得ません。しかし、それが神の愛です(→ヨハネ3:16「神はそのひとり子を…」)。

  神の御子は「ぶどう園の外に追い出して殺」されます。「そんなことがあってはなりません」と言う者に対して、主は「家造りらの捨てた石が…」(詩118:22)を引用されます。大事な工事に不格好な石が「隅のかしら石」(建物の頂上)に用いられた話です。後にペテロは主イエスのことを「この人による以外に救いはない」(使徒4:12)と断言します。

「隅のかしら石」である主は、誰でも安心して頼ることができる救い主です(溺れる者の手!)。沈む砂のような世界から救い出されて、「わが君イエスこそ、救いの岩なれ」(讃280番)と歌う者は幸いです。

 








2021.5.16


神のものは神に返しなさい…」

        ルカ20:1927


    ここでは主イエスとユダヤ人指導者たちの間で「カイザルへの税金」を巡って論争がなされます。主は、国家への義務は果たすべきだが、もっと大切なのは、神への義務を果たすことだと教えられます。

 「律法学者や祭司長たちは…義人を装うまわし者(スパイ)を送」るという卑怯な手を使って「イエスを総督(ピラト)の支配と権威とに引き渡すためその言葉じり(言質)を捕らえさせよう」とします。主はそういう苦しみも経験されます(→詩38篇「わなを設け」)。

 口のうまい彼らは「先生…あなたは…真理に基いて神の道を教えておられ」ますと持ち上げて、「カイザルに貢(税金)を納めてよいでしょうか」と質問します(当時のローマ皇帝はティベリウス・カエサル)。主はいきなり「デナリ(銀貨)を見せなさい」と言われます。「コインを持って来るように命じられたのは、それだけで彼らの罠を覆せたからである。」(カルヴァン)「だれの肖像、だれの記号なのか」とわれると、「カイザルのです」と答えざるを得ません(視覚教材!)。

  主は先ず「カイザルのものはカイザルに…返しなさい」と、政治的な支配者に対する義務を果たすことの大切さを語られます。それらは神が立てておられる権威です(→ローマ13章、Ⅰペテロ2章)。しかし、神ご自身の権威はもっと大きくて広いものです(創世記1章「神は自分のかたちに人を創造された」)。それで主は「神のものは神に返しなさい」と、神に対する義務を果たせと命じられます(私たちの礼拝!)。

  神に似たものとして造られた人間は、生涯を通して神に感謝と賛美をささげて生きるのです。苦しいことの多い人生ですが、ルターのように「神はわが櫓(やぐら)」(讃267番)と歌える者は幸いです。






 


2021.5.23



強く心を刺され…」

         使徒2:3747


  ペンテコステ(聖霊降臨主日)なので、使徒行伝にある「教会の誕生日」話を読みます。ルカは、ペンテコステの日に聖霊が来てくださって、教会が誕生し、救われる人々が次々に加えられた、と語ります。

ペテロが力に満ちて「あなたがたが十字架につけたこのイエスを…」と語ると、人々は「強く心を刺され」ます(見えない聖霊の働き!)。彼らが「どうしたらよいのでしょうか」と尋ねると、「悔い改め(て帰って来)なさい…罪のゆるしを得…イエス・キリストの名によって、バプテスマ(洗礼)を受けなさい」と勧めます。そうすれば「主なる神の召しにあずかるすべての者」が「この曲がった時代から救」われて、そこに教会という赤ちゃんが生まれるのです(Ⅰペテロ2章「霊の乳を…」)。

  彼らは「バプテスマを受け…3千人ほど」の団体になります(→ヨハネ5章「べテスダの池」の水)。その教会での生活は「①使徒たちの教えを守り、②信徒の交わりをなし(コイノニア館!)、③パンをさき(聖餐式!)、④祈りをしていた」とあります(タテとヨコの交わり!)。

 エルサレムに残ったクリスチャンたち(外国から来た人々は帰って行った!)は「みな一緒にいて…持ち物を…分け与え…心を一つにして…宮もうで(神殿礼拝)をなし…家(複数)ではパンをさき…食事を共にし…神をさんび」して、「すべての人に好意を持たれて」いました。「これは思いやりの美しい見本である。」(カルヴァン) こうして「主は、救われる者を日々仲間に加えて」くださいました(オアシスのような教会!)。

 聖霊なる神は今も人々に働きかけ、「強く心を刺」して教会に加えられます。「アメージング・グレイス」の作者であるニュートン牧師は、「栄に満ちたる神の都」(讃194番)と、教会に仕える喜びを歌います。








2021.5.30


あの貧しいやもめは…」

        ルカ20:41-21:4


  エルサレムでの残り短い日々の中で、主イエスはご自分がダビデの子孫以上の存在であることを語られます。そして、律法学者たちを批判し、貧しいやもめのような信仰生活をして欲しい、と教えられます。

主は「どうして人々はキリスト(メシヤ)をダビデの子だと言うのか」と、その言い方を問題にされます。「主は死の時が近づいていることを知って、ご自身の神性を確かにしようとされる。」(カルヴァン) ダビデ自身がメシヤを「わが主」(詩110)と呼んでいるのですから、「ダビデの子(子孫)」というだけでは不十分です(ユダヤ人の救い主→全人類の救い主)。後にペテロは大胆にそれを語ります(→使徒2章「ペンテコステの説教」。それが教会のメッセージです(虎の威を借る狐)。

 主は「律法学者に気をつけなさい」と言われ、「長い衣を着て…」というような人間的な飾りや、「(金持の)やもめの家を食い倒」すこと、「見えのために長い祈をする」ことなどが問題にされます。彼らは「きびしいさばきを受ける」でしょう(ヤコブ3章「教師の問題」)。

 主は「金持たちがさいせん箱(→真鍮製のラッパ形の容器)に献金を投げ入れる(音を立てて!)のを見られ」ますが、「ある貧しいやもめが、レプタ(100円相当の銅貨)二つを入れる」のを見逃されません。彼女の献金は「持っている生活費全部」と言って良いほどです。金持たちは「ありあまる中から献金を投げ入れる」のですから簡単ですが、彼女は少ない中から工夫して献げたのです(少額でも尊い→豊かな生活)。

 主は「あの(原文では「この」)貧しいやもめ」と言われます。彼女が献金するのを見ておられます。「ナルドの壺(つぼ)ならねど(それほどではない!)献げまつるわが愛」(讃391番)と歌う者は幸いです。