2022.11.6

 

あなたがたと契約を立て…」

創世記17


 章から洪水後の新しい世界の話になります(→故和子副牧師「東日本大震災後の被災地訪問記)。主なる神は、荒廃した世界を前にして恐れるノアとその息子たちを祝福すると約束され、契約を立てられます

 主は彼らを祝福して「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と彼らを励まされます(→1章「アダムとエバの祝福」)。箱舟で共に生活した動物たちは「あなた方の手に委ねられる」とし、「あなた方の食物となる」と許可されますが、「肉を血と一緒に食べてはならない」と残虐な扱いは禁じられます(→釣った魚の処理)。また「あなたがたの命である血が流された場合…命の償いを求める」と「神のかたち」である人間の尊厳を守られます。

 洪水による世界の滅びという大惨事を経験したノアたちに対して(敗戦のトラウマでB29の爆撃を恐れる少年!)、主は「私はあなたがたと契約を立てる」として、「洪水が地を滅ぼすことはもはやない」とはっきり約束されます。「天が雲で覆われる度に、地がもう一度水没するのではないかと恐れることがないために、不安を取り除かれる。」(カルヴァン)

 さらに主は「とこしえに私が立てる契約のしるしはこれである」として、「私は…私の虹(弓)を置いた」と言われます(→詩18篇「矢稲妻」)。これからは二度と人を滅ぼす武器を使うことはないというサインです(床の間に飾られた火縄銃!)。「雲に虹が現れるとき、私はそれを見て…永遠の契約を思い起こす」とご自分に言い聞かされます。

 ノアたちは大きな力付けを得て新しい世界に踏み出します(「宗教改革記念礼拝」の時に改革者たちの勇気に学ぼう!)。「主の尊き御言葉」(讃284番)に頼る者は「安けくあれ、わが友よ」と聞いて前進するのです。







2022.11.13


セムの神、主はたたえら…」

創世記1810:32


 箱舟から出て生活するようになったノアとその息子たちの話です。ノアの失敗を巡って、息子たちの対応は違っています。息子たちはそれぞれに活躍しますが、主なる神はセムとその子孫を祝福されます。

 ノアは「ぶどう畑を作り始め」ますが、発酵した「ぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸に」なるという失敗をします。ハムは「父の裸を見て、外にいた二人の兄弟に知らせ」るという冷たい態度を取りますが、「セムとヤフェトは衣服を取って…父の裸を覆った」と温かいのです(→Ⅰコリント13章「愛は寛容」)。ノアは「(ハムの息子の)カナンは呪われ…セムの神、主はたたえられ」ますようにと言います。「ノアは罵りの言葉を述べるのではなく、預言者の霊を持って語るのである。」(カルヴァン)

 ノアの後、「ヤフェトの子孫は…ヤワン(ギリシャ)…タルシシュ(スペイン)…海沿いの諸国民…」なりますが、「ハムの子孫は…エジプト…カナン…バベル(バビロン)…シンアルの地…」と中央部に大きな力を持つ存在になります。特に「ムロドは地上で最初に勇士となった者…勇ましい狩人」とされ、世界的な帝国を造ります(→鷹狩→軍事演習→戦争)。

 さらに「セムにも子どもが生まれ」ますが、大きな力は持てません(→4章「アベルとセト)。「セムの子孫は…アルパクシャデ…エベル(へブ)」と続き、エベルの長男は「その時代に土地が分けられたことにちなんでペレツ」と名付けられます。そのペレツの子孫の中から、アブラハムの父であるテラが生まれることになります(→11章「セの系図」)。

 自分の失敗をかばってくれたセムのことを思う時、ノアは「セムの神、主はたたえられ」と賛美せざるを得ません。弱く小さくても「わが主のみ前に喜び集いて」(讃537番)と互いに喜ぶ者は幸いです。








2022.11.20


塔を見ようと降って来て…」

創世記111-32


 「アダム物語」の最後に「バベルの塔」の話が来ます(→ウルのジグラット「高い塔」)。主なる神は、人間が大きな力をもって世界を支配するのをストップさせ、主の祝福を求める者を助けられます。

 洪水後の世界では「氏族と言語」が分かれましたが(→10章)、「シンアルの地」(→10章「ニムロドの王国」)では「一つの言語、同じ言葉」に統一されています。人々はれんがを焼きアスファルトを使って「我々は町と塔とを築こう…頂は天に届くように…散らされることにないように」と一致団結のシンボルを造ろうとします(ピラミッドから仁徳天皇陵まで!)。

 主は「人の子らが築いた町と塔を見ようと降って来」られ、「今や…誰も止められはしない」と言われますが、「神は彼らの愚かで短絡的な自信を皮肉を込めて嘲笑れる」(カルヴァン)のです。そこで「降って行って…言語を混乱させよう」と簡単な方法ストップさせられます(外国語でのコミュニケーションの困難さ!)。そこから人々は「全地の面に散らされ」ますが、やがて新約の時代になると、聖霊が降って使徒たちは「他国の言葉で話し」ます(→使徒2章→ギリシャ語を話すペトロ)。

 最後に「セムの系図」と「テラの系図」が来ます。信仰者セムの子孫としてテラが生まれ、「テラは…息子アブラム(後のアブラハム)…嫁のサライを連れてカルデアのウルを出発し、カナンの地に向」かいます(→「アブラハム物語」)。後になると、主イエスの父ヨセフと母マリアは、皇帝アウグストの命令に従って旅に出ます(→ルカ2章「クリスマス」)

 主は可愛くない人間のために「降って来て」助けられます(→ローマ5章「罪人のために死ぬキリスト」)。この世界に「いとも尊き主は降り」(讃191番)、「涙に代えて歌を与え」るために来てくださるのです。



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2022.11.27

 

私は世の光である…」

ヨハネ91-12


 今年のクリスマスシーズンには、「生まれつきの盲人」の話を読んで、「良き羊飼い」としての主イエスについて説教します。主はすべての人間の心に光を与えるために、この世界に来てくださった神の御子です。

 この福音書を書いた使徒ヨハネは、年老いてから他の福音書記者が書かなかったことを取り上げますエルサレムの神殿の近くで物乞いをしている盲人に注目される主を見て、弟子たちは「誰が罪を犯したからですか」と心ない質問をします(→ヨブの友人たち→障碍者になる高齢者)。主は「神の業がこの人に現れるためである」と前向きな返事をされます。

 この時の主は「働くことのできない夜が来る」のを知って、「私をお遣わしになった方(父なる神)の業を、昼の間に行わねばならない」と急がれます。「私は、世にいる間、世の光である」からです。「キリストはその到来によって新しい輝きを生じさせられた。」(カルヴァン) 主は「地面に唾をし…土を…目にお塗りになり…シロアム(町から離れた池)…に行って洗いなさい」と敏速に行動されます(→杉原千畝「ビザの発行」)。

 この盲人は「行って洗い、見えるようになって、帰って来」ます(従順は信仰!→列王下5章「ヨルダン川で身を清めるナアマン」)。盲人の時の彼をよく知っている人々でさえ「その人だ」というものもいれば、「いや違う。似ているだけだ」と見間違えるほどの変化です(白内障の手術前と後!)。彼は「イエスという方が、土をこねて…行って洗ったら、見えるようになったのです」と素直に語り、はっきりと主を証しします。

 この盲人は、目が開けると同時に、光に満ちた世界に生きる者になります(「世の光」である主との出会い!)。「主イエスは共にいます」(讃298番)という恵みを知った者は、「安かれ、わが心よ」と歌うのです。