2020.8.2

 

「わたしの隣り人とはだれ…」

ルカ10:25-37

 

 「エルサレムへの旅」が続く中で、「ある律法学者が…イエスを試みようとして」近づきます。主は、隣人愛を頭の中だけで考えるのでなく実行して欲しいと、「良きサマリヤ人」の話をされます。

この学者は「何をしたら永遠の命を受けられましょうか」と質問しますが、主は逆に「律法にはなんと書いてあるか」と質問されます。

「神を愛せよ」(申命6:5)と「隣り人を愛せよ」(レビ1918)と正解しますが、「その通り行いなさい」と言われて、「わたしの隣り人とはだれのことですか」と、「隣人という言葉の下に隠れ場を見つけよう」(カルヴァン)とします。頭で考えるだけでフットワークが重いのです(→マタイ23章「言うだけで実行しない」)。

主は「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中」(「赤い坂」!)強盗に襲われて半殺しにされた、というたとえ話をされます。先にそこを通りかかった祭司もレビ人も「彼を見ると向こう側を通って」何もしません(神殿に仕える宗教家は多忙?)。

ところが「あるサマリヤ人が…彼を見て気の毒に思い」(→7:13「深い同情」)、「近寄って…ほうたいをしてやり…宿屋に連れて行って…デナリ二つを…」と親切に扱います。「三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」と問われて、学者は「その人に慈悲深い行いをした人です」と答えるしかありません。主は「行って同じようにしなさい」、と隣人愛の実行を促されます。

主ご自身が、私たちを助けようとして、フットワークを軽くしてやって来てくださいました。「慈しみ深き友なるイエス」(讃312番)に助けていただいた者は、喜んで多くの人の隣人になります。

 

 

 

2020.8.9



■「ある金持の畑が豊作であった

          ルカ121321


 召天者記念礼拝なので、主イエスが語られた「愚かな金持」のたとえ話を取り上げます。主は、人生で大切なのは財産を豊かに得ることではなく、神に対して富むことであると言われます。

エルサレムへ向かう旅の途中で、ある金持の男が遺産の分け前が少ないと兄のことを訴えます(→申命21:17)。主はその問題の「裁判人…分配人」になることを断わられ、人々に「あらゆる貪欲に…警戒しなさい…人のいのち(の豊かさ)は、持ち物にはよらない」と教えられます。兄と争って、少しばかり多く遺産を得たとしても、それで幸せになれるわけではありません(→15章「放蕩息子」)。

 主は「ある金持の畑が…」とたとえ話をされます。彼は「わたしの作物(小麦)…わたしの倉…(わたしの)穀物や食糧」と、何もかも「わたしのもの」だとします。そして、あげくの果てには「自分(わたし)の魂」に向かって、「安心せよ、食え、飲め、楽しめ」と言うほど、自分のことしか考えません(家族のことも忘れて?)。

 彼に対して神は「愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去れるであろう」と言われます(→詩90:3「人の子よ、帰れ」)。

 「この男が自分の力の下にあると空想していた魂は、他者の手中にあった。」(カルヴァン) どんな人でも、神が呼ばれたら帰って行くしかありません(召天者たち!)。それを忘れて、「自分のために宝を積んで、神に対して富まない者」は「愚かな金持」なのです。

 主は、遺産のことばかり考えているこの男が、主のもとに来て信仰を持って欲しいのです。「天なる喜び…たずさえ下れるわが君イエス」(讃352番)に招かれて、「御国にのぼ」る者は幸いです。







 


2020.8.16



■「無くてはならぬものは多くはない

          ルカ103842


 「良きサマリヤ人」の話をされたあと、主イエスはフットワークの軽いマルタをたしなめて、反対にマリヤを誉められます。主は私たちの奉仕を喜ばれますが、その前に主の教えを聞いて欲しいのです。

旅の途中で、「イエスがある村へはいられ…マルタという名の女が…家に迎え入れ」ます(→ヨハネ11章「ラザロと…マリヤと…マルタの村ベタニヤ」)。主はその家で、集まった人々に向かって説教を始められ、「マリヤは…主の足もとにすわって、御言に聞き入って」います(→フェルメール「マルタとマリヤの家のキリスト」)。

 一方でマルタは「接待のことで忙しくて心をとりみだし」てしまいます(奉仕の行き過ぎ!)。主に向かって「妹がわたしだけに接待をさせている」と文句を言い、「手伝いをするように妹におっしゃってください」と、マリヤを批判します。「マルタは…妹が教えを受けようとする敬虔な熱心さを軽蔑するのである。」(カルヴァン)

 主は、思いわずらっている彼女に、「マルタよ、マルタよ」と優しく呼びかけて、「されど無くてならぬものは多からず、唯一つのみ」(文語訳)と諭(さと)すような言い方をされます(→新共同訳「必要なことはただ一つだけである」)。「マリヤはその良いほうを選んだ」のだから「取り去ってはならない」のです。信仰生活で大切なのは、御言葉を聞くことです(→使徒6章「神の言と食卓のこと」)。

 この時はフットワークが重く見えたマリヤが、後になると、主の十字架に備えて素晴らしい奉仕をするのです(→ヨハネ12章「ナルドの香油」)。「この世のつとめ」に心を奪われそうになる時、小さき御声を聞きわけうる静けき心」を持つ者は幸いです(讃313番)。






2020.8.23


■「しきりに願うので

          ルカ1113


 マルタとマリヤの話では、御言葉を聞く大切さが教えられましたが、次は祈りについての話になります。主イエスは、私たちが父なる神の心を動かすほどにしつこく祈って欲しいのです(お百度参り!)。

 「イエスがある所で祈っておられ」るのを見て、「私たちにも祈ることを教えてください」と弟子が願います(祈りの模範!)。主は彼らに「父よ、御名があがめられ…わたしたちを試みに会わせないでください」と教えられます(→マタイ6章「主の祈り」)。美しい師弟関係の中で祈りは伝えられるのです(先輩から後輩へ!)。

 祈りの必要性について、主は「真夜中にパンを借りに来る友人」のたとえ話をされます。ユダヤの庶民の生活の中で、「面倒をかけないでくれ…何もあげるわけにはいかない」と断わられても、「しきりに願うので…起きあがって」助けてくれるという話です。相手を信頼しているからこそ、無理を承知で頼むことが出来るのです。

 祈りは必ず答えられるということについて、主は「求めよ…捜せ…門をたたけ」と励まされます(→マタイ7章)。人間の父親が「悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をする」と主は言われます(父親のヨセフ!)。「人間のよこしまさが、父親としての愛に負けて、あふれるほどに与えるのである。」(カルヴァン)「天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊(→マタイ7:11「良いもの」)を下さらないことがあろうか」と、父なる神への信頼を勧められます。

 「しきりに願う」とは「恥を知らないで」という言い方です(遠慮して隠れる子供のようではなく!)。「祈りは口より出て来ず」(讃308番)というほど口下手でも祈ればよいのです(→ローマ8:26)。









2020.8.30  




■「神の指によって悪霊を追い出して

          ルカ1126


  主イエスは口のきけない人から悪霊を追い出されます。「悪霊のかしらベルゼブル」の力を借りていると批判されますが、主は人間の心の中から悪霊を追い出して、ご自分を受け入れさせたいのです。

「ベルゼブル」(→列王下1章「エクロンの神バアル・ゼブブ」「悪霊のかしら」と言われますが、サタンの国の将軍のような存在でしょう。主は「サタンも内部で分裂すれば、その国はどうして立ち行けよう」と反論されます(暴力団も!)。さらに「あなたがたの仲間」の中に悪霊を追い出す人もいるので、「彼らがあなたがたをさばく者

となる」と言われます(→マルコ3章、マタイ12章)。

 主は「神の指によって…神の国はすでにあなたがたのところに来た」と宣言されます。「強い人が…邸宅を守っている」のはサタンの国ですが、「もっと強い者が…彼に打ち勝てば…分捕物を分ける」のはキリストの国が来ているのです。「わたしの味方」を求められます。

 悪霊を追い出してもらった人について、主は「汚れた霊が人から出ると、休み場を求めて水の無い所を歩き回る」と言われます。「悪霊にとって、人間の外に住むのはみじめな追放状態である。」(カルヴァン) 彼は「元の家に帰ろうと…帰ってみると…飾り付けがして」あるので、「自分以上に悪い他の七つの霊を引きつれて」そこに住むでしょう。「悪魔が…ししのように…食いつくすべきものを求めて歩き回って」(Ⅰペテロ5:8)います(小さな穴からでも!)。

 「神の指」とは神の大きな力を意味します(→出エジプト8:19)。私たちは主イエスから離れないで、「わが主ともにいまさば、悪魔われをいかにせん」(讃525番)と歌いつつ、歩み続けるのです