2023.11.5

主イエス・キリストを着なさい 

         ローマ13:1114


  12章から始まったクリスチャン生活の諸注意の締めくくりとして、パウロは大切な心構えを教えます。彼クリスチャンたちが終わりの日に備えて主イエス・キリストを着て歩んで欲しい、と語ります。

  ローマという大都会で生活しているクリスチャンたちの事を考えて、パウロは「さらに(この事が大切!)、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています」と注意を促します。彼らが「眠りから覚めるべき時がすでに来て…救い(の完成)が…近づいている」からです(マルコ1章「神の国は近づいた」→アライアンスのロゴ「王冠のキリスト」→マタイ25章「眠っている時も予備の油を用意している賢い乙女たち」)。

  今は「夜は更け、昼が近づいた」時です(都会の夜は明るい!)。早くそれに気づくべきです(マタイ24章「いちじくの葉」)。「(暗い)闇の行いを脱ぎ捨て…(ピカピカに磨いた)光の武具を身につけましょう」と勧めます(→エフェソ6章「神の武具」→獄中で番兵を観察するパウロ)。

  具体的には「日中を歩むように、品位をもって(良い姿勢で)歩もう」と勧め、「「馬鹿騒ぎや泥酔、淫乱や放蕩、争いや妬み」は捨てるべきだと教えます。「汚い衣服は人の不名誉となる。」(カルヴァン)「主イエス・リストを着なさい」と言うのは、すでに着ているものをきちんと身に着けることです(→6章「洗礼とキリストとの一致」)。「欲望を満足させようとして、肉に心を向ける」ことを止めて前進すべきです(→アウグスティス『告白』→長い求道者生活→「取って読め」→疑いの闇が消えた」)。

  キリストを着て歩む生活は、服を自分に合わせるのでなく、自分を服に合わせるのです(→軍服の話)。「主よ、御許に近づかん」(讃320番)と歌いつつ、天に向かって歩む者は幸いです。







2023.11.12


私たちは主のもの 

         ローマ1412


     14章以下(15章13節まで)でパウロはローマ教会の特殊事情について語ります(→16章「誰々によろしく」)。クリスチャンはみんな主のものですから、小さな違い(禁欲主義と自由主義)は受け入れ合うべきです。

  パウロは「信仰の弱い人を受け入れなさい」と命じます(→15章「私たち強い者」。「この人たちは非常な温厚さと柔和さをもって扱わなければ挫けてしまう。」(カルヴァン) 弱い人は「野菜だけを食べ」(ベジタリアン!)たり(→Ⅰコリント8章「偶像に献げた肉」)、「ある日を他の日よりも尊」んだり(→友引→ひな祭り→七五三)します。大切なのは「食べる人は主のために食べ…食べない人も主のために食べません」が、両者と…神に感謝して(食前の祈り!)」そうしていることです。

      誰も「他人の召し使いを裁く」資格はありません(神の召し使いであるクリスチャン!)。「私たちは…自分のために生きる人はなく…主のために生き…死ぬ」のであって、「主のもの」であり、「キリストが死に…生きたのは…死んだ人にも生きた人にも主となられる」ためでした(→ヨハネ20章「ふて腐れたトマス」→「私の主、私の神よ」)。

  お互いに「きょうだい(主にある兄弟姉妹!)を裁く」べきではありません。やがて「私たちは皆、神の裁きの座の前に立つ」のです(イザヤ45章「すべての膝は私の前にかがみ」)。そして「私たちは一人一人、自分のことについて神に申し開きをする」ことになります(→喪中ハガキ→ルカ16章「人生の会計報告」→「ごく小さな事に忠実な者」)。

  小さな違いがあっても、「生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のもの」(→『ハイデルベルク信仰問答第1問』)で。同じ羊飼いに導かれる羊として「我らは主のもの」(讃354番)と歌いつつ仲良く歩みます。











2023.11.19

互いに築き上げるのに役立つことー」

         ローマ141323


  食物や日を巡るトラブルに対して、パウロは小さな違いは受け入れて仲良くすべきだと語りました(「和」の大切さ!)。ここではさらに、クリスチャンは互いに助け合って信仰を成長させるべきだ、と語ります。

  やがて神の前に立つ者として「互いに裁き合うのはやめ(裁かないとし)…妨げとなるものを…置かないように決心しなさい」と強く言います。信仰の弱い仲間も「キリストはそのきょうだいのために死んでくださった」ことを覚えるべきです。「最も小さい兄弟も、キリストの血によって買い取られた者である。」(カルヴァン) 彼は食べ物については「主イエスにあって確信して」います(→マルコ7章「腹に入り外に出る」)。

  大切なのは「神の国は飲み食いではなく…義と平和と喜び」であり、そのようにする人は「神に喜ばれ…人に信頼(真物と認定)され」ます。自分だけのことでなく、「平和に役立つことや、互いを築き上げる(→口語訳「徳を高める」)ことを追い求める」ようにして欲しいのです(→ルカ24章「弟子たちの前で魚を食べて見せられる復活の主」)。

  改めてパウロは「食べ物のために、神の業(わざ)を無にしてはなりません」と警告します。「肉を食べず、ぶどう酒(→偶像に供えた御神酒?)を飲まず…きょうだいがつまずくことをしない」配慮があるべきです。「あなたは自分の持っている信仰を、神に前で持ち続け」て良いのですが、他の人が「疑いながら食べる」ようなことをしないで欲しいのです(→エフェソ2章「私たちは神の作品(傑作)」→他のクリスチャンも!)。

 「築き上げる」というイメージは、建物を建てる時の苦労を思い出させます(→月報号外「庄内の礼拝堂兼牧師館」)。「我が身の望みは(讃280番)と歌いつつ、「救いの岩」である主の上に信仰を築き上げる者は幸いです。

 




2023.11.26

 

神の栄光のためにー」

         ローマ15


      ローマ教会トラブルは簡単に解決することではありませんが、ある程度の見通しはできたようです。パウロは結論として、教会のメンバーたちがお互いを受け入れて、救いを喜び、神を賛美して欲しいと語ります。

  彼は「私た強い者はと言って、多数派の側に自分を置き、彼らが自己主張をして「自分を喜ばせる」のではなく、「互いに築きあげる(建てる)ために…隣人を喜ばせる」べきだとします。「キリストもご自身を喜ばせよう」とはせず、神を「そしる者のそしり」を受けられました(→詩69篇→ヨハネ2章「宮清め」)。具体的には、「強くない者の弱さを担うべき」です(→マタイ11章「キリストの軛」→鋤を引く2頭の牛)。

 旧約聖書引用について、彼は「これまでに書かれたことは…私たちを導くため」だとし、「聖書が与える忍耐と慰めによって、希望を持つことができる」と語ります(族長たちの信仰!)。新約時代の私たちは「キリスト・イエスに倣」うなるべきです(→ルカ2章「飼葉桶の御子」)。

 「神の栄光のために…互いに相手を受け入れなさい」というのが結論です。「キリストは…割礼のある者(ユダヤ人)に仕える者」となられたと共に、「異邦人が神を…崇めるようになるため」に来られました(→詩18篇、申命記32章、詩117篇)。最後に彼は「エッサイの根が興り…異邦人は彼に望みを置く」(イザヤ11章)として、「希望の源である神」を賛美するのです(フィリピ2章「謙卑と高挙の主のV字」。「この預言は他のすての引用以上に明瞭であり、顕著である。」(カルヴァン)

 「キリストがあなたがたを受け入れてくださった」ように、私たちが互いに受け入れるならば、そこに確かに「神の栄光」が現われるでしょう。「いともかしこし、イエスの恵み」(讃520番)と賛美する者は幸いです。