2019.10.6



■「一頭の雄羊がいた

          創世記22:1

 アブラハムに与えられた試錬は、ケタ外れと言ってよいほど難しいものでした(前半)。しかし、それに耐え抜いた時、主なる神はとても喜ばれ、大きな祝福を次々に与えられます(後半)。

 その祝福のスタート(運動会のイメージ!)は、イサクの代わりに「一頭の雄羊」が備えられていたことです。「神みずから燔祭の小羊を備えて(プロバイド→プロバイダー)くださる」と信じるのが「摂理」(摂→摂取、理→管理)の信仰です。アブラハムはその場所の名を「アドナイ・エレ」(主は備え給う)と呼んで、「感謝の記念碑を後世に残す」(カルヴァン)のです(→ローマ書8:28「神は…召された者たちと共に働いて、万事を益としてくださる…」)。

 その祝福のスピードは、これまでの約束を改めて繰り返して、「わたしは自分をさして誓う」と、主がそれらを再確認して行かれるものです。「大いにあなたの子孫をふやし…天の星…海べの砂のように…地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を受けて…」(→12―15章)と言われ、それは「あなたがわたしの言葉に従ったからである」と念を押されます(→ヤコブ2:22「信仰が行ないと共に働き」)。

 その祝福のゴールは、やがてイサクの妻となるリベカ(→24章)の紹介です。「ミルカもまたあなたの兄弟ナホル(ハラン在住)に子どもを産み」(→11:29)とあり、その子どもの中の「ペトエルの子はリベカ」です(「赤い糸」ではなく「神の摂理」によって!)。

 アブラハムは雄羊を見付けますが、それは神が「備え」(プロ<もって>+ビデオー<見>)ておられたものです。神の摂理を信じ者は、「天に行く馳場(はせば)」(讃370番)を走り抜くのです。




2019.10.13



■「一つの墓地をください

           創世記23:1

 イサクに関わる試錬のあと、アブラハム夫婦には静かな日々が与えられたようです。やがてサラが生涯の終わりを迎えます。主なる神は私たちが死んだあとも、住む所を備えていてくださいます。

  「サラは…キリアテ・アルパ(四つの町)…ヘブロンで死んだ」の(→結婚式の式文「サラはアブラハムに仕えて…」Ⅰペテロ3章)、「アブラハムは…悲しみ泣」きます。その町の住民に対して、「旅の者で寄留者」である自分たちに「一つの墓地をください」と頼みます。

  「天幕を固定するための土地を足幅ほども欲しがらず、墓地に心を用いた」(カルヴァン)のです。彼の誠実さを知る住民は、「あなたは…神のような主君です」と言って快く承諾します(信頼関係!)。

 用心深いアブラハムは、「その町の門にはいる人々の聞いているところ」で、エフロンという人物が所有する「畑の端のマクペラ(「二重構造」)のほら穴」を買いたいと申し出ます。エフロンは気前よく「さしあげます」と言いますが、最後的には「銀400シケル」という法外な値段をふっかけます(→エレミヤ32:5「銀17シケル」)。アブラハムは値切りもせずに買い取ります(所有を確かにするために!)。

 こうしてアブラハムは、「その妻サラを…ヘブロンの前のマクペラの畑のほら穴に葬」ります。やがて自分もそこに葬られます(→25:9)。彼は「ゆるがぬ土台の上に建てられた都を、待ち望んで」(ヘブ11:10)いたので、その信仰を証ししたかったのです。

 墓地は小さくても、「身体のよみがえり、永遠の生命を信ず(使徒信条)」という信仰を証しするものです。昔の信仰者と共に、「主よ、みもとに近づかん」(讃320番)と歌いつつ生きる者は幸いです。



2019.10.20


■「イサクのために妻を

        創世記24:167

  

アブラハムは生涯の終わり頃になって、息子のイサクのために妻を見つけようとします(→22:20)。主なる神は、大きいことばかりでなく、小さなことについても、私たちを祝福してくださいます

アブラハムは信頼できる「家の年長のしもべ」(→15:2「エリエゼル」)に、「ももの下に」(割礼のしるし!)手を入れて誓わせ、「親族の所へ行って…イサクのために妻をめとる」役目を与えます。彼は「十頭のらくだ」と共に「ナホルの町」へ行き、井戸に集まる娘たちの中から、水を「あなたのらくだにも…」と言ってくれる者を、主が「イサクのために定められた者ということにしてください」と、条件つきの祈りをします(主の御心を探る祈り!)。

「彼がまだ言い終わらないうちに…ベトエルの娘リベカが、水がめを肩に載せて」やって来ます。話はトントン調子で進み、エリエゼルは彼女に「金の鼻輪一つと…金の腕輪二つ」を与えて、彼女の家に来ます。欲深い兄のラバン(父親のベトエルは引退?)は妹の結婚話に乗気ですが、エリエゼルは「主は…わたしを正しい道に導かれた」と喜ぶだけでなく、「右か左か」と、はっきりした返事を求めます。

 親たちの承諾を得ると、翌朝すぐに花嫁を連れて出発しようとしす。リベカは驚くほど素直に「行きます」と言い、従者を連れてカナンへ来ます。「イサクは夕暮、野に出て歩いて」います。「彼は祈りに心を向けていた。」(カルヴァン) こうして二人は結婚し、「イサクは母の死後、慰めを得た」と、ハッピーエンドになります。

   「飼い主わが主」(讃354番)は、「緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる」(詩23篇)ほどに、小さい事にも優しい方です。


2019.10.27



■「荒野で呼ばわる者

             ルカ3:1

「アブラハム物語」の説教が終わって、ルカ福音書の主イエスの生涯を辿ることにします。バプテスマのヨハネの話からですが、主なる神は、荒野のような世界に救いの恵みを告げ知らせられます。

パウロが「愛する医者ルカ」(コロサイ4:14)と呼ぶ人物ですが、パウロと行動を共にしながら(→使徒16章「ひとりのマケドニア人」)、詳しく調べた事を歴史家らしく書きます(→1:1-4)。「皇帝テベリオ在位の第15年(AD28年)…ピラトがユダヤの総督…ヘロデ…ピリポ…アンナスとカヤパ(娘婿)とが大祭司」と言うように、当時のユダヤの国は政治的にも宗教的にも荒野でした(→教会リーフレット「わたしたちの救い」)。

その頃、「神の言が荒野(クムランの洞窟?)でザカリヤの子ヨハネ(→1:80)に臨み」ます(預言者のように!)。彼は「ヨルダンのほとり」(→ヨハネ1:28「ベタニヤ」)で、「悔い改めのバプテスマ(洗礼)を宣べ伝え」ます。そこには水があるだけでなく、エルサレムからも近いので、人々は救いを求めてやって来ます。

 預言者イザヤが、バビロン捕囚のユダヤ人たちに開放の日が来たと告げたようにイザヤ書40章)、ヨハネは「荒野に呼ばわる者」として、「主の道を…まっすぐに…わるい道はならされ」るく、「地ならし」をする役目を与えられたのです(教会コンサート!)。やがて主イエスが来られると、「人はみな神の救いを見る」でしょう。

 「ヨハネが宣教を始めた時…エルサレムは荒野であった。」 (カルヴァン) 昔も今も、「行けども…ただ砂原」(讃244番)のような世界に、「帰れや、父なる神のもとに」と呼びかける者は幸いです。