2018.10.7
マタイ5:17-20
五章の終わりまで、「律法」がテーマになります(→『十戒』)。主イエスは、ご自分に従う者たちが、律法を守って正しい生き方をして欲しいのだ、と語られます。
安息日に病人を癒したりされる主ですが(→12章)、決して律法を軽んじるのではなく、「律法や(それを語る)預言者を廃するため…ではなく、成就するために」来た、と言われます。「キリストは、彼の教えが律法と一致しないどころか…完全な成就をもたらすのだ、と宣言される。」(カルヴァン)
クリスチャンは、「(神の)みまえに傷のない者となるようにと」(エペソ1:4)選ばれた者です(親鸞の教え!)。そもそも「十戒」も、イスラエルの民に対して、「あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した」(出エジプト20:2)主なる神が与えられたもので、「(ヘブル語の)一点、一画も」変わらずに全うされるべきです。従って、「これらの最も小さいいましめの一つ」でも破ったり、そう教えたりする者は「天国で最も小さい者」と呼ばれます。
弟子たちは、偽善的な「律法学者やパリサイ人の義」に勝る義を全うして(→23章)、「天国にはいる」者になって欲しいのです(「人のふり見て、我ふり直せ」!)。
律法を守る者として「天国で大いなる者」になって欲しい、と主は願われます(→20:21)「主の右と左の座」)。先祖ヤコブのように、「主よ、御許に近づかん」(讃320番)と歌いつつ、地上の生涯を歩むのです
2018.1014
■「賛美は神様のために」
コロサイ3:12-17
12節:16日は世界食料デーです。世界の貧困を考え、活動する日です。パウロがローマの獄中で書いたコロサイ教会宛の手紙から、自分の貧困の問題を見たいと思います。自分の内にある貧困、つまり信仰の共同体に属する者として貧しさの問題で、具体的には「愛する」ことへの貧しさの問題です。「あわれみの心~寛容」とはキリストを
着ることで、キリストを目標とした歩みが、信仰者となった私たちには、最も相応しい姿です。
13節:受洗の後、十字架の意味が迫ってきました。ゆるせない自分の姿をイエス様が示され、私のためのあの十字架であったことが分かりました。平安が訪れました。教会共同体の私たちお互いは、経験したゆるし以上の問題に迫られることが、これからもあるでしょう。キリストのゆるしを想い起こす必要のある人間として生きています。
14節:ここでは、ゆるし合うことの大切さが、光り輝いています。料理のレシピ通りの材料がたとえ揃わなくても、愛さえあれば、美味しい料理が完成するのです。キリストの愛は完全で、私たちに最も必要なのが、この愛です。
15節:キリストの愛によって、一致・協力・ハーモニーが生まれます。そこから、お互いを支え合い、愛に覆われて、お互いの平和を願う心が育まれます。
16,17節:教会に来て、神様を賛美する喜びを知りました(CMで聴いていた「Amazing Grace」も讃美歌でした!)。「詩と賛美と霊の歌とによって」、神様を賛美する仲間に加えられて、天国を味わうことのできる私たちは幸せです。 (李貴淑牧師)
2018.10.21
■「兄弟に対して怒る者は…」
マタイ5:21-26
十戒の2枚の石の板(→レンブラント「モーセ」)の2枚目は「人を愛しなさい」という戒めです。主イエスは、「殺すな」という第6戒を取り上げて、私たちがただ人の体を傷つけないだけでなく、心も大切にして欲しいのだ、と語られます。
「昔の人々に『殺すな、殺す者は裁判を受けねばならない』…とあなたがたは聞いている」とあるように、人の体を傷つけるのは大きな罪です(殺人罪・傷害罪!)。主は、「しかし、わたしはあなたがたに言う」と、権威をもって語られます(→7:29)。「兄弟にむかって愚か者(ラーカー)…ばか者(モーレー)と言う者」は、それだけで殺人と同じくらい大きな罪を犯しているのです(ネグレクト!)。
ただ単に人を傷つけなければ良いのではなく、良い人間関係をつくることが大切です。「祭壇に供え物をささげる」ような熱心な信仰者でも(祈り・礼拝!)。「兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを思い出し」た時は、「まず行ってその兄弟と和解」するような努力をすべきです(結婚生活も!)。
「あなたを訴える者と一緒に道を行く時」というのは、信仰者が金銭トラブルで訴えられるような場合のようです(遺産をめぐる親族の争い!)。「ほとんどすべての人は、邪(よこし)まな自己愛によって盲目になっている。」(カルヴァン) 「途中で早く仲直り」しないと、人間関係という大切な財産を、「最後の1コドラント(1デナリの1/64≒100円?)まで失うでしょう。
「兄弟に対して怒る者」ではなく、「兄弟を愛する者」(遠方からでも心配して訪ねる友人!)となるべきです。主イエスは「こよなき愛」(讃352番)を与えるために、天から下って来られました。
2018.10.28
■「『姦淫するな』と言われて…」
マタイ5:27-33
主イエスは、「姦淫するな」という十戒の第7戒を取り上げて、私たちが肉体的な関係だけでなく、言葉や態度でも罪を犯さず(セクハラ!)、良い男女の関係を作って欲しいのだ、と語られます。
「あなたは姦淫してはならない」(出エジプト20:14)という戒めは、ユダヤ人なら誰でも日頃から聞いていたはずです。しかし、主は神の御子の権威をもって、「情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」と、きびしい言い方をされます。小さな欲望から、大きな問題が生じることをよく知っておられるのです(→サムエル記11章「ダビデは…ひとりの女…を見た」)。
その意味では、小さなことに気を付ける必要があります。「もしあなたの右の目が罪を犯させる(つまずかせる→スカンダロン)なら、それを抜き出して捨てなさい」と言われます。同じように、「もしあなたの右の手が…」と言われ、「五体の一部を失っても…益である」と驚くような言い方をされます。「キリストは誇張法を用いて…示さ
れる」(カルヴァン)のですが、そうしてまでも、私たちが大きな人生のつまずきをしないようにと配慮してくださるのです。
さらに、「妻を出す者は離縁状を渡せ」(申命記24:1)という離婚問題については、女性を守るために、「不品行以外の理由」で安易に離婚せず、「神が合わせられたものを、人は離してはならない」(19:6)と、男女の結びつきの大切さを教えられます。
「今のはあなたの夫ではない」(ヨハネ4:18)と言いつつ、主イエスはサマリヤの女を見捨てられません。私たちは、「み恵みを身に受くれば…今は強し」(讃448番)と歌いつつ、前進できるのです。
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