「水を飲ませてください…」
ヨハネ福音書4:1-9
昨年はヨハネ3章の「ニコデモ」の話を取り上げたので、今年は4章の「サマリアの女」を取り上げます。主イエスは、どんな時でもどんな人にでも救いを与えようとする神の御子です(0.5%の日本人クリスチャン!)。
この頃、「イエスは…ユダヤ地方(エルサレムの郊外)に行って」伝道活動をしておられましたが、洗礼者ヨハネのグループとトラブルが起こります。「イエスがヨハネよりも多くの弟子を作り、洗礼を授けておられる(実際は弟子たち!)ということが、ファリサイ派の人々の耳に入った」ことを知って、主イエスは「再びガリラヤに行かれ」ます(時間の有効活用!)。
そのためには「サマリアを通らねばならなかった」ので、「シカルというサマリアの町」の「ヤコブの井戸」の所に来られます。そこで「イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられ」ます。「正午ごろ」で暑かったのです。「キリストは疲れたように見せたのではなく、本当に疲れておられたのである。」(カルヴァン→ヘブライ4章「大祭司イエス」)。「言は(弱い)肉となって、私たちの間に宿った」(1章)とヨハネは言います。
人目を避けるようにして「サマリアの女が水を汲みに来た」のを見て、主は「水を飲ませてください」と頼まれます。「弟子たちは食べ物を買うために町に行って」いて留守です(ヨハネは残っていた?)。その主イエスの声に温かさを感じたようで、彼女は「ユダヤ人のあなたが、サマリアの女(ユダヤ人から差別されているだけでなく女でもある自分!)の私に…水を飲ませて欲しいと頼むのですか」と、好意的な反応をします。
主イエスは、この女の心の中にある渇きを知って、彼女の心に届くように語りかけられます。「行けども、行けども、ただ砂原」(讃244番)のような人生の中で、「疲れしわが友」という招きの声を聞く者は幸いです。
2024.12.8
「永遠の命に至る水…」
ヨハネ福音書4:10-15
サマリア人の女性が関心を示したのに対して、主イエスは彼女の心に語りかけられます(→カウンセリング用語「ラポール(信頼関係)を懸ける」)。主は、普通の水ではなく、永遠の命の水を与える神の御子です。
主は「もしあなたが、神の賜物を知っており(→3章「独り子を賜う」)…『水をください』と言ったのが誰であるかを知っていたなら…その人から生ける水をもらったことであろう」と、彼女が考えていた普通の水ではない水の話をされます。彼女の心の中にある渇きを知っておられるのです(→アウグスティヌス『告白』→「あなたのうちに憩うまでは安らぎはない」)。
彼女としては「生ける水」と言われても、まだ「あなたは汲む物(ユダヤ人専用のバケツ!)をお持ちでないし、井戸は深いのです」と実際の水を考えています。そうなると祖先の自慢を始めて、「あなたは、私たちの父(先祖)ヤコブよりも偉いのですか」と誇ります(→日本の宗教)。
それに対して主は「この水を飲む者は誰でもまた渇く」と言われ、「しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない」と、その違いをはっきりさせられます。何故なら、「私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」からです。心を動かされた彼女は、「主よ、その水をください」と言いますが、どこまでわかっていたでしょうか。「その女はそれとなくキリストをからかっているのである」(カルヴァン)という解釈もあります。しかし、彼女の心が大きく動かされたのは事実でしょう。
「水が湧き出る」とは、足が不自由な男が「跳び上がった」(使徒3章)とあるのと同じ言葉です(→ヨハネ10章「豊かな命」)。「天つ真清水」(讃217番)を飲んで、「命に帰りけり」と歌う者は幸いです。
「今がその時である…」
ヨハネ福音書4:16-26
主イエスとサマリアの女性との会話が続きます。ここでは彼女の結婚生活に触れる話から、礼拝の話になっていきます。主は、ユダヤ人もサマリア人も一緒になって父なる神を礼拝する時が来ている、と言われます。
主はその女性に「あなたの夫をここに連れて来なさい」と言われ、彼女は「私には夫はいません」と恥ずかしい現実を隠そうとしますが、「あなたには五人の夫がいたが…」と彼女に同情的な主です(淫乱の女→不幸な女)。彼女も「主よ、あなたは預言者だとお見受けします」と尊敬を示し、「私どもの先祖はこの山(→ゲリジム山)で礼拝しましたが、あなたがた(ユダヤ人)は…エルサレムにあると言っています」と、関心を示します。
それに対して、主ははっきりと「この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」と言われます。「救いはユダヤ人からくる」という歴史は本当だが、「まことの礼拝をする者たちが、霊と真実をもって(口語訳「霊とまこととをもって」)父を礼拝する時が来る」のであり、「今がその時である」と宣言されます。「キリストは、神への礼拝をその最初の狭い枠から外へ引き出し、さらに遠く押し拡げられるのである。」(カルヴァン)
彼女は「キリスト(「油注がれた者」)と呼ばれるメシアが来られ…一切のことを知らせてくださいます」と希望を語ります(→ヘンデル『メサイア』)。それに対して主は、「あなたと話をしているこの私が、それ(メシア!)である」と宣言されます(→ヨハネ21章「イエスは神の子メシアであると信じるため」という執筆目的)。彼女は信じたでしょうか(→次回の説教)。
「父はこのように礼拝する者を求めておられ」、そのために御子を「メシア」としてこの世界に送られました(クリスマス!)。「久しく待ちにし」(讃94番)メシアが来てくださったと信じて賛美する者は幸いです。
「この方がメシアかもしれません…」
ヨハネ福音書4:27-30,39-42
主イエスがご自分をメシアだと宣言されたあと、弟子たちが帰ってきます。サマリア人の女性は、主が語られたことを聞いて、彼がメシアであると信じる者となり、他のサマリア人と共に喜びます。
その頃、「食べ物を買うために(シカルの)町に行っていた」弟子たちが帰ってきます(買い物も困難な関係!)。「イエスが(サマリアの)女の人と話しておられるのに驚」きますが、それでも「何をこの人と話しておられるのですか」と尋ねたりはしません(信仰者のふるまい→お互いへの信頼)。
水を汲むために来たその女性は「水がめをそこに置いて町に行」くというような変な行動をし、人々に「さあ、見に来てください」と積極的に呼びかけます。彼女は「私のしたことをすべて言い当てた人がいます」と、自分の恥を話して、「もしかしたら、この方がメシアかも知れません」と呼びかけるのです。「永遠の命に与る者とされた時、他の人たちを招いて一緒に与らせようとするのは、信仰の本来の姿である。」(カルヴァン)
彼女の呼びかけに応じて主のもとにやって来たサマリア人たちは「女の言葉によって、イエスを信じた」のです(信仰者の証の大切さ!)。彼らの招きに応じて、主は二日間そこに滞在されます。その結果、多くのサマリア人が「イエスの言葉を聞いて信じ」ます。彼らは「私たちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからである」と言います。そして、そのきっかけを作ったのは、この女性の素朴な話でした(体験のリアルさ!)。
「メシアかもしれません」というのは、はっきりしない言い方ですが、それは押しつけがましくないのです(説教も!)。」クリスマスの時、「来たり…拝めメシアを」(讃104番)と歌って、素朴に告げる者は幸いです。
「目を上げて畑を見るがよい…」
ヨハネ福音書4:31-38
サマリア人の女性が「水がめをそこに置いて町に行」っている間に、弟子たちは主イエスに食べ物を勧めます。しかし主はそれに対して、伝道することの大切さと、緊急性と、その喜びとを語られます。
苦労して買い求めて来た食べ物を(→戦後の食糧難)、弟子たちが「先生、召しあがってください」と勧めます。それに対して主は、「私には、あなたがたの知らない食べ物がある…私をお遣わしになった方(父なる神)の御心を行い、その業を成し遂げること」だと言われます。食べ物よりも大切なものがあるのです(→マタイ6章「神の国と神の義」)。
弟子たちは、その女性の様子を見て察しても良かったはずでした。しかし、彼らは「刈り入れまでまだ四か月ある」と悠長に構える、鈍感な農夫のようです(→グーグル「小麦は11月頃種を蒔き6月頃収穫する」)。それを見て主は「目を上げて畑を見るがよい…刈り入れを待っている」と、伝道のチャンスを見逃さないようにと警告されます(名を挙げて祈る!)。「天の事について私たちはどんなに怠惰なことだろうか。」(カルヴァン)
伝道は、「蒔く人も刈る人も共に喜ぶ」とあるように、個人プレーではなく、チームプレーです(牧師と信徒の協力!)。時間的に言っても、「一人が蒔き、一人が刈り入れる」ということわざのように、必ずしも同じ人が出来るとは限りません(→詩126篇「涙と共に種を蒔く人は…」)。弟子たちは「ほかの人々(預言者?)…の労苦の実り」に与っているのです。
「目を上げて…」と言われた時に、弟子たちは多くのサマリア人が主のもとに来るのを見て喜ぶべきでした。「昔主イエスの蒔き給いし」(讃234番)と歌いつつ、「命の種」を育て、収穫する者は幸いです。
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