2024.6.2


私の民を去らせ…私に仕えさせなさい

             出エジプト7:2610:29



 第1回目のナイル川の水を血のようにする災いに続いて、主は他の災いを起こされます。主はファラオに、イスラエルの民を去らせて、主を礼拝させて欲しいと言われますが、彼は従いません(→3つのエピソード)。

 第2回目はナイル川に多くいた「蛙の災い」です(→口語訳は8章から→ヘブライ語の原文の区分)。主が「私の民を去らせ…私に仕えさせなさい」とファラオに言われても、彼が拒むので「蛙が這い上がってきて、エジプトの地を覆」います。困ったファラオ「蛙を追い払うように主に祈って欲しい」と上手に言うと、モーセはすぐに信じて、いつそうして欲しいか「どうぞ申しつけてください」と返事します(お人好し!)。しかし、「一息つく暇」ができるとファラオは簡単に約束を破ります(モーセの信仰の訓練!)。

回目は「ばったの災い」です(→口語訳「いなご」より大きい種類→ヨエル書「軍馬のように」)。ここまで、③ぶよ、④あぶ、⑤疫病、⑥腫れ物、⑦雹、の災いを経験した家臣たちが反対してもファラオは「男だけ行って主に仕えよ」と全員を行かせないので、ばったが来ます(→公同の礼拝)。

 第9回目は「暗闇の災い」です(→十字架の時の「シロッコ風」)。モーセが天に向かって手を伸ばすと「闇がエジプトの地に臨み、誰もが手探りで闇を感じる」ほどになります。しかし、「イスラエルの人々が住むところには光があった」と言われます(→マタイ5章「世の光」)。「イスラエルの人々は太陽の光を見て、神の父親のような優しい顔が輝くのを喜んだに違いない。」(カルヴァン) それでも民を去らせないファラオです。

 ファラオはイスラエルの民を「私の民…私に仕えさせる」者と考えていますが、本当は主の民です(私たちも!)。「かいぬしわが主よ」(讃354番)と歌いつつ、この御方を礼拝する者は幸いです。










2024.6.9


大きな叫びがエジプト全土に響き

                      出エジプト1110


 9回目の災いの後でも、ファラオは民を去らせないので、主は10回目の最後の災いを通告されます。主は、長子であるイスラエルを救うために、エジプトの初子たちを苦しめるという最後の手段に訴えられます

 主はモーセにエジプトからの脱出の計画を告げられます(→映画『栄光への脱出』→英語名『エクソダス』)。主は「エジプトの上にさらに一つの災いを下す」と言われます。そのあとファラオは「あなたがたをここから去らせる」ので、民は「その(エジプト人の)隣人から銀や金の飾り物を求める」べきです旅の間の費用!)。幸い「エジプト人が民に好意を持つようになって、「モーセその人も…家臣や民の厚い尊敬を受け」ています。

 モーセはファラオに、主が「深夜エジプトの中を歩む…エジプトの地のすべての初子は死ぬ…ファラオの初子からと警告し、「大きな(悲しみの)叫びがエジプト全土に響き…かつて起こったことがなく…」と悲劇を予告されます(主の苦渋の決断!)。誰かがこの災いと…神の長子であるイスラエル(→4章「私の長子」)を苦しめた不正な圧政との間に類比を見出すとすれば、私は反対しない。」(カルヴァン)

 一方で「イスラエルの人々に対しては…犬はうなり声を立てることもない」でしょう(野良犬でさえも!)。モーセは「あなたの家臣すらも皆…私にひれ伏して」頼むようになり、「その後私は出て行く」とファラオに最後通告をします。そして「モーセは怒ってファラオのもとを出て行った」とあります(彼のやりきれない気持ち!→「ポツダム宣言」と日本の政府)。

 エジプトの初子たちを死なせたくない主が、ご自分の御子を十字架につけられます(→ヨハネ3章「独り子を与える神」)。「悩みの淵より」(讃258番→詩130篇呼ばわる者を救ってくださる主を知る者は幸いです。









2024.6.16


私はその血を見て…過ぎ越す

                     出エジプト1228


 ここでは「過越祭(すぎこしさい)」(→ヘブライ語「ペサハ」→英語「パスオーバー」)の話になります。主は、エジプトに裁きを下されますが、イスラエルの民に対しては子羊の血を見て過ぎ越されます。

 主はモーセとアロンに「この月(アビブ→麦の穂)は…一年の最初の月である」として、「この月の十日に…家族ごとに…欠陥のない一歳の雄の子羊」を用意し、「十四日…夕暮れ(午後3時~6時)にイスラエルの会衆は皆集まってそれを屠る」ように命じられます(→ヨハネ1章「世の罪を取り除く神の子羊」)。さらに「その血を…柱と鴨居の間に塗る」べきです。

 実行に当たっては「その夜のうちに肉を火で焼き、種なしパン(→除酵祭)に苦菜を添えて食べる」のですが、「腰に帯を締め…手に杖を持って」すぐに出発できるようにすべきです。主は「その夜…エジプトの地のすべての初子を打たれ」ますが、「あなたがたがいる家の血は…しるし」となり、「私はその血を見て…過ぎ越す(パスオーバー)」と約束されます(→10章「暗闇の災い」→「イスラエルの人々の住む所には光」→旧約時代の選民)。

 その血は「ヒソプ(→詩51篇)を…浸して…鴨居と柱に付け」ます。そうすると「主は…滅ぼす者(天使!)が…打つことがないように」されます。大切なのは「あなたがたは…掟として…与えられる地に入ったとき、この儀式を守らなけばならない」ということです(子供たちへの教育の大切さ!)。ただし、これは旧約時代に限られます。「『とこしえの掟』とあるのは、やがて教会が新しくなるまでのことである。」(カルヴァン)

 神の御子である主イエスは「二度と過越の食事をすることはない」(ルカ22章)として、それに代わる聖餐式を制定されました。「千歳の岩よ」(讃260番)と神の御子を呼んで、「我が身を囲め」と歌う者は幸いです。











2024.6.23


主は…夜通し見張りをされた

                          出エジプト2951


 いよいよカナンに向ての旅が始まります「モーセ物語」の終わり→申命記34章「120歳のモーセ」)。主は、第10回目の災いによって、イスラエルの民をエジプトから脱出させ、彼らの旅の安全見守られます。

 アビブの月の14日の深夜、「主はエジプトの地のすべての初子を打たれ…悲痛な叫びが…上が」ます(→昭和20年3月の大阪大空襲)。そうなるとファラオは「モーセとアロンを呼び寄せて…行って主に仕えなさい…私のことも祝福してほしい」伝えます(「ポツダム宣言」の受諾)。エジプト人はイスラエルのをせきたて…民はパン種を入れていない生地…を肩に担ぎ…銀や金の飾り物」をもらって出発します(→11章好意)。

 民は「ラメセスからスコトに向けて出発」しますが、「女と子どもは数に入れず、徒歩の男だけで六十万人でした(→原文「600小単位」→「討ち入り」の人組)。それに「雑多な人々」も加わり、「種を入れないパン菓子」を食料にします(→戦後の米を持参する修学旅行)。「過越祭の掟は…(羊)の足を折ってはならない」とされます→ヨハネ19章「主の足」)割礼を受けた者は誰でも食べられます(→マタイ6章「思い煩うな」)。

「イスラエルの人々がエジプトに滞在していた期間は四百三十年」だとされます(創世記15章「四百年の間」)。「神は忍耐を教える目的で、約400年とおよその数を言われたのである。」(カルヴァン) その旅の出発に当たって、「主は…夜通し見張り(口語訳「寝ずの番」)をされますこうして「主はイスラエルの人々を集団ごとにエジプトから導き出された」のです。

 この夜、見張りをされる主の目は優しかったに違いありません(→ヨハネ8章「姦淫の女と主イエス」)。「み恵み主の手」(讃294番)に引かれて、人生という旅終わりまで歩める者は幸いです。












2024.6.30


雲の柱火の柱

                 出エジプト13:122


 エジプトから出発したイスラエルの民のカナンへ向けての旅が始まります(→地名の問題葦の海に通じる荒れ野の道」→スエズ運河)。主は彼らと共にいて、その旅を導き、彼らを守られます。

 旅初めに、主はカナンで守るべき儀式として「除酵祭」(じょこうさい)の事を、モーセを通して語られます。「アビブの月(→12章「一年の最初」の今日、あなた方は出発する)のですが、「蜜と乳が流れる地」に入った時、「七日間…種なしパンを食べなければならない」と命じられます(苦難の記憶!)。「この言葉を…手に付けて…額に付けて」と具体的です(→聖餐式)。

 もう一つの儀式は「献児式」です(→ルカ2章「主イエスの献児式」)。動物の初子も献げるべきですが、「ろばの初子は…子羊で贖う」ことができます(労働力のため?)。これもまた「エジプトの地のすべての初子を殺された」主が、そういう中でもイスラエルの初子を守られたことを記憶するためです(→ローマ12章「自分の体を…献げなさい」)。

 出発に際して「神は彼らを(地中海沿いの)ペリシテ人の住む道に導かれ」ませんでした。「確かに彼らは最初の一撃でも耐えられず…降伏したであろう。」(カルヴァン) その反対に「神は荒れ野の道へと民を向かわせ」られます。「イスラエルの人々は隊列を整えて(五人組!)出発し、「モーセはヨセフの骨を携えて」います(→創世記50章「遺言」→ヘブライ11章)。その旅の間、「主は彼らの先を歩まれ…昼は雲の柱…夜は火の柱」として彼らを導き、それが「民の前を離れることはなかった」のです。

 弱くて不安なイスラエルの民に、主はいつも寄り添って、その旅を導かれます。「主よ、御手もてひかせ給え」(讃285番)と歌いつつ、「我と道を選びとらじ」と、主に従って歩者は幸いです。