2024.7.7

 

あなたがたは静かにしていなさい

                    出エジプト14:114


 荒れ野の旅が始まって間もない頃の話です。主はイスラエルの民を「葦の海」の手前に導いて(→地名の問題「ピ・ハヒロトの海辺」→昔の大阪湾)、ファラオと対決しようとし、恐れる民を励まされます。

 主はここで「引き返して…海辺で宿営しなさい」と命じ、ファラオがそれを見て「彼らはその地で迷い、荒れ野に閉じ込められた」と考えるようにされます(主の策略!→千早城の戦い)。そうして「私はファラオの心をかたくなにし…ファラオとその全軍によって栄光を現」わそうとされます。

 案の定、「ファラオとその家臣は…考えを変え」て、「その戦車に馬をつなぎ…六百台のえり抜きの戦車と…そのすべての補佐官を配備」するという意気込みで「イスラエルの人々の後を追」います。それとも知らず「イスラエルの人々は意気揚々と(文語訳「(主の)高らかなる手によりて」)進んで」います。「聖書記者は間接的に、民が余りにも安心し過ぎていたと述べるのである。」(カルヴァン→右手からと左手からの誘惑・試練)。

 「ファラオが近づいて…イスラエルの人々は非常に恐れて主に向かって叫」びますが、それは信仰による祈りではありません(私たちも!)。モーセに対しても「エジプトに墓がないから…連れ出したのですか荒れ野で死ぬよりはエジプト人に仕えるほうがましです」と、無茶な言い方をします(パニックの子供のように!)。そういう彼らに、モーセは「恐れてはならない…今日あなたのために行われる主の救いを見なさい」と語り、「主があなたがたのために戦われる。あなたがたは静かにしていなさい」と教えます

 主は「汝ら静まりて我の神たるを知れ」(詩46篇・文語訳→府中教会の礼拝堂の額)と言われます。そこに救いがあるからです。「安かれわが心よ」(讃298番)と歌いつつ、「主エスは共にいます」と信じる者は幸いです。










2024.7.14


主は…海を退かせ

                 出エジプト141431


 イスラエルの民は「葦の海」(口語訳「紅海」)の手前まで来ています。主は追って来たエジプト軍から民を守るために、海の水を退かせてそこを通らせられます(アメリカの日曜学校「ゼリーで作った海」)。

 主はモーセに「なぜ私に向かって叫ぶのか」と、彼が叫ぶように祈るのに心を動かされて、「人々に出発するように告げなさい」と命じられます(「ピ・ハヒロトの海辺」から海へ!→「海」は実際には「湖」→「ガリラヤの海」)。彼が「自分の杖を上げ、海に向かって手を伸ばし、海を二つに分け」れば、人々は「海の中の乾いた所を進んで行ける」と約束されます。

 「モーセが海に向かって手を伸ばすと、主は夜通し強い東風で海を退かせ乾いた地に」され、「人々は海の中の乾いた地を進んで」行きます。「エジプト人は彼らの後を追って行き」ますが、「朝の見張りの時(午前2~6時)、主は…エジプト軍を…かき乱され」ます(→詩77篇「雨雲は水を注ぎ出し」)。こうして「主が戦車の車輪を外し、進みにくくされた」ので、エジプト人は「主が…エジプトと戦っている」と言って恐れます。

 主に命じられて「モーセが海に向かって手を伸ばすと、海は夜明け前に元に戻」ります(→口語訳「夜明けになって」)。こうして「水は…ファラオの軍隊すべてを呑み込み…主はこの日、イスラエルをエジプトの手から救い出され」ます。その光景をモーセは見ています(→創世記19章「ソドムとゴモラの滅びを見るアブラハム」)。「神は、その僕モーセを選んで、この出来事の証人とされた。」(カルヴァン→「東日本大震災の被災地訪問記」)。

 主は「海を退かせる」という非常手段を用いてでも、神の民を救おうとされます(→ヨハネ3章「独り子を与える神」)。「神はわが力」(讃286番)と歌いつつ、この御方に頼る者は幸いです。

 












2024.7.21

 

主に向かって歌え

出エジプト1521


 目の前にあった湖が分かれて、エジプト軍から救われるという経験は大きな感動でした。そういう主の大いなる救いの業を見て、モーセもイスラエルの民も心を一つにして主を賛美します(→大分教会の献堂式)。

 「モーセとイスラエルの人々」は「主に向かって私は歌おう…主は馬と乗り手を海に投げ込まれた」と歌います。「モーセが自分の役目として賛美の例を示し、民は彼と共に歌うことによってそれを承認した。」(カルヴァン)

「主は戦人(いくさびと)…ファラオの戦車と軍勢を海に投げ込まれ、えり抜きの補佐官(→14章「盾を持った指揮官」は…沈んだ」と、主の御業の素晴らしさを心一杯に賛美します。

 過去の事だけでなく、未来の事についても賛美します(→カナンへの旅)。

あなたは贖われた民(イスラエル)を慈しみをもって導き、力をもって聖なる住まい(→カナンの土地)に伴われた」と歌い、「エドムの首長ら…アブの有力者…カナンの住民らは皆恐れおののいた」と見通すのです(予言的過去形)。「あなたは彼らを導き、ご自分の山(カナン)に植えられ…とこしえに治められる」でしょう(→教会堂の今後)

 その時のエピソードが語られます。「アロンの姉である女預言者ミリアム」が登場します(→2章「モーセの乳母を世話する話」)。彼女は「タンバリンを手に取ると、女たちも…踊りながら彼女に続いて出て来」ます。彼女たちもまた「主に向かって歌え…」とイスラエルの会衆と心を合わせて賛美するのです(→会衆賛美を助ける聖歌隊→召天者記念礼拝)。

 礼拝ごとに、教会は心を一つにして主を賛美します(→台湾の山地にある部族の教会の賛美)。「栄に満ちたる神の都」(讃194番)の中で、「こよなき喜び」を心をこめて賛美する者は幸いです。










2024.7.28

私は、あなたを癒す者

                   出エジプト152227


 主に向かって賛美の声をあげたイスラエルの民でしたが、そのあとはい荒れ野の旅が始まります(石だらけの道!)。旅の中で、水がないため不平を言う民に対して、主は水を与えて彼らを癒やされます。

 一行「シュルの荒れ野に入って…三日間進んだが、飲み水が見つからなかった」時、「マラ(口語訳「メラ」)では水が苦くて(マーラ)飲めせんでした。民が「何を飲んだらよいのですか」と不平を言い、モーセが「主に向かって叫ぶ(ように祈る)と、主は彼に一本の木を示され…水は甘くなります(モーセの羊飼の時の経験「水を中和させる木」)。

 その時、「主は掟と法を示し彼(民)を試み」られます(シナイ山での十戒授与に先立って!)。主は「もしあなたの神、主の声に必ず聴き従い、主の目に適う正しいことを行い、その戒めに耳を傾け、その掟をすべて守るならば…あらゆる病をあなたには下さない」と約束され、「まことに私は主、あなたの病を癒やす者である」と宣言されます。「神は、御言葉によって彼らに忠告を与えて、これからは彼らが従順になり、もっと教えられ易い者となり、神の命令に従順になるようにされるのである。」(カルヴァン)

 その後、「彼らはエリムに着いた」とあり、「そこには泉が十二、なつめやし(→ヤシのような木にナツメのような形の甘い実を付ける)が七十本」もあり、「彼らはその水のほとりに宿営」して、しばらくゆっくりと過ごします(甘い果実は疲れを癒やす!)。「聖書記者はここで、さらに楽しい道の駅(ステーション)が民のために備えられたと語る。」(カルヴァン)

 主なる神は、苦しい人生の旅の中でも、私たちを癒やしてくださる御方です(→アライアンスのロゴ「癒し主イエス・キリスト」「天つ真清水」(讃217番)を与えてくださる恵みの神を賛美しつつ旅するは幸いです。