2025.1.5


あなたがたは静かにしていなさい 

                     出エジプト14:8-14


 今の時代は、日本や世界のあちこちで災害や戦争が起こっていて、私たちは何となく落ち着かない時を過ごしています。そういう中でも、全能なる神を知る信仰者は、主なる神に信頼して、静かにしているべきです。

 第一は「真の言葉」(マタイ7:24-29)です。大工であった主イエスは

「私のこれらの言葉(→「山上の説教」)を聞いて行う者は…岩あの上に自分の家を建てた賢い人に似ている」と言われます(→7章「おが屑と梁」)。主の言葉は「権威ある者」のようで、雨が降り、川が溢れ、風が吹いても倒れない家のようです(→詩119篇「御言葉は足の灯、道の光」)。

 第二は「真の平和」(出エジプト17:8-15)です。アマレク人(遊牧民)との戦いの時、「モーセが手を上げて」祈っているとイスラエルは強くなりますが、下げると弱くなるので、「アロンとフルはモーセの手を…両側から支え」て、その時の戦いに勝利します。彼らは戦いが終わって平和が来るまで祈り続けたのです(→マタイ5章「平和を造る人々」)。

 第三は「真の神」(出エジプト14:8-14)です。エジプトからやっと逃げ出すことが出来たイスラエルの民でしたが、「海辺で宿営」していた彼らを、エジプト王のファラオが戦車を連ねて追ってきます(絶体絶命!)。それを見て人々は「非常に恐れて主に向かって叫んだ」とあり、モーセに対しても、「エジプトに墓がないから…私たちを連れ出したのですか」と無茶な言い方をします。モーセは、「恐れてはならない…主があなたがたのために戦われる」と、真の神に信頼すべきことを教えるのです(絶対的信頼!)。

 真の神に信頼する者は「静かにしている」ことが出来ます(慌てふためかない!)。「安かれわが心よ」(讃298番)と自分の心に呼び懸けつつ、主に信頼して歩む者は幸いです。

 








2025.1.12


主はモーセに呼びかけ

                       レビ1:1-7:38 


 「モーセ物語」では「出エジプト記」が終って「レビ記」に入ります。その最初では「献げ物」の話になります。主はモーセに命じて、動物や穀物を献げて、御心にかなう礼拝をするようにと教えられます。

 出来たばかりの幕屋には「祭壇」がありました(→出エジプト38章)。先ず自発的な献げ物として、「焼き尽くすいけにえ」(口語「燔祭」)と「穀物の供え物」(口語「素祭」)と「会食のいけにえ」(口語「酬恩祭」)の献げ方が規定されます。「家畜、すなわち牛や羊を献げ物としてげなければならない」とありますが、貧しい者は鳩でも良いとされます(→ルカ2章「主イエスの両親」)。主はそれを喜ばれます(→創世記8章「ノアの献げ物」)。

 次に義務的な献げ物として、「人が誤って罪を犯した場合」はそれぞれのケースに応じて、「清めのいけにえ」(口語「罪祭」か、「償いのいけにえ」(口語「ケン祭」)を献げるべきです。「聖書記者はここで、罪の除去についてのいけにえの事を述べて、それによって神が人間の罪を取り除いてご自分と和解させられると言うのである。」(カルヴァン) 罪を赦されて平安な心で主を礼拝すべきなのです(→「我らの罪をも赦したまえ」)。

 主はモーセに、「アロンとその子らに命じよ」と言われて、祭司たちがこれらの献げ物を取り扱う場合についての具体的な指示を与えられます。そして、「これはモーセがシナイの荒れ野で主に献げ物献げることをイスラエルの人々に命じた日に、主がシナイ山でモーセに命じられたことである」と締めくくられます(→大阪教会規則第25条「礼拝及び聖礼典の執行」)。

 主イエスは「父はこのように礼拝する者を求めておられる」(ヨハネ4章)と言って、新約の時代の新しい礼拝の仕方を語られます。「ああ平和よ…奇しき平和よ」(讃531番)と歌って、主の前に出る者は幸いです。











2025.1.19

 

イスラエルの人々は…出発し

                     民数記101-36 


 「モーセ物語」の話を前に進めるために、「レビ記」は省略して、「民数記」を取り上げます。イスラエルの民は、モーセに率いられてシナイを出発してカナンに向かい、主が彼らと共におられます。

 「第二年の第二の月の二十日」(エジプト脱出から約1年後)、「雲が証しの幕屋から離れて昇った」(→出エジプト40章「幕屋を雲が覆い」)ので、「イスラエルの人々はシナイの荒れ野を出発し、雲はパラの荒れ野にとどま」ります。ユダ族が先頭に立って行進します。「このように軍団ごとに出発し、旅路に着きます(「戦闘の教会」→「救世軍」)。

 モーセは「しゅうとであるミデアン人レウエル(→出エジプト18章「エトロの来訪」)の子ホバブ」に、荒れ野の旅の道案内を頼みます(「旅は道連れ、世は情け」)。「一緒に来てくださるなら、主が私たちに賜わる幸いをあなたにもお分けしましょう」と語るのですが、結論は書かれていません。「すべての疑いは、士師記4章を見ると取り除かれる。」(カルヴァン→「カイン(という場所)にいるホバブの一族」)。

 「彼らは主の山(シナイ山)から旅立ち、三日の道のりを進んだ」のですが、「主の契約の箱(アーク)は…彼らに先立って進み、彼らの休む場所を探した」とあるように、旅の導き手です(頼もしいリーダー!)。モーセは。出発の時には「主よ、立ち上がってください」と言い、とどまる時には「主よ、帰って来てください。幾千幾万のイスラエルの民のもとに」と祈ります。主が共にいてくださるなら安心なのです。

 モーセの後継者であったヨシュアは、他の人はどうであれ、「私と私の家は主に仕える」(ヨシュア24章)と言って、主から離れません。「主よ、終わりまで仕えまつらん」(讃338番)と歌って、主に従う者は幸いです。