2018.11.4

 

 みんなの者が一つとなるため

           ヨハネ172026

 

 「宗教改革記念礼拝」の時、主イエスが教会のために祈られた祈りから、これから形づくられる教会が、心を一つにし、栄光に輝き、成長するように、という願いを持っておられたことを学びましょう。

 主は、「最後の晩餐」の終わりに、弟子たちのために祈った(6-19節)あと、「彼らの言葉を聞いてわたしを信じている人々」(すべての信者)のために祈られます。「キリストはその祈りを、世の終わりに至るまでのすべての福音の弟子たちに拡大しておられる。」(カルヴァン) 教会が世界大になっても、「わたしたち(御父と御子)が一であるように、彼らも一つに」なって欲しいのです(→教会の現状ハリストス正教会、カトリック教会、プロテスタント諸教会)。

 さらに主は、彼らが「わたしのいる所(→「全能の父なる神の右」)に(心で)一緒にいる」ようになり、「栄光を彼らに見させて」、彼らも輝くようにと祈られます(→詩123篇「見よ…主人の手に目を…

 主婦(女主人)の手に目をそそぐように…主に目をそそいで」)。

 最後に主は、「正しい父よ」と呼びかけて、「この世はあなたを知ていません」(「家内安全…商売繁盛」の神の他は!)が、信者たちには、「御名を知らせ…これからも知らせましょう」と、彼らがこれかも信仰において成長し続けることを期待されます(500年前とは違カトリック教会! プロテスタントは頑固か?)。

 世界中のキリスト教会が「一つとなる」という理想を現実にする努力が大切です(「アライアンス世界連盟」の激しい議論と一致!)。ョン・ニュートン牧師(「アメイジング・グレース」の作者)は、教会の困難を知りつつ、「栄に満ちたる神の都」(讃194番)と歌います。

2018.11.11

いつわり誓うな

           マタイ53337


 主イエスは、第8戒の「盗むな」を省略して、第9戒の「いつわり誓うな」を取り上げ、私たちが誓ったり、約束したことを守って、お互いの間に良い信頼関係を築くように、と語られます。

 第9戒は「隣人について、偽証してはならない」(出エジプト20:16)ということで、悪口や陰口も禁じるものですが(いじめ!)、主は特に誓ったことは…果せ」と、約束の実行を問題にされます(→民数記30:2)。実行できないことを誓うべきではありません(士師11章「エフタとその娘」の悲劇!)。

 もしも実行する気がないならば、「いっさい誓ってはならない」と神の御子は厳しい言い方をされます。そういうごまかしが横行していたからです(→23:16~22)。 「天を…地を…エルサレムを…さして誓う」者もそうですが、「自分の頭をさして誓う」者も「髪の毛…白くも黒くもする」神と無関係には出来ないのです。派手なパフォーマ    

ンス信用を失います(→「巧言令色鮮[すくなし]仁」)。但し、「あらゆる誓いがキリストによって非難されているという誤った教え」(カルヴァン)にまどわされてはなりません(結婚式の誓約!)。

 日常生活の中では、「あなたがたの言葉は…しかり…否…であるべき」です。(約束したことは必ず守る!)。「それ以上に出ることは、悪(魔)から来る」と、主は強く警告されます(→ヨハネ8:44)。

 主の前で、私たちはいつも「心から進んで、誠実に」(カルヴァンのモットー)歩みたいものです。「ありそ(荒磯)の岩」のように確かな「主のまこと」(讃85番)が、私たちを支えてくださいます。

 

 

 

 

2018.11.18

目には目を、歯には歯を

           マタイ53842

 

  主イエスは、十戒の付録のような生活規定(憲法と法律!)を取り上げ、私たちが誰かに傷つけられるような経験をする時に、良い解決をして、平和な人間関係を作るように、と語られます。

 人に傷害を負わせた者(加害者)は、「目には目…傷には傷…をもって償わねばならない」(出エジプト21:24以下)と定めてあり、被害者を保護するものでした(同害賠償法!)。しかし、人間は何倍もの報復をしないと「腹の虫がおさまらない」のです(→創世記34章「ヤコブの娘デナの兄たち」の報復→パレスティナ問題)。

 そういう人間の心理をよく知っておられる神の御子は、「悪人(加害者)に手向うな」と、行き過ぎた報復を禁じられます。但し、正当な自己防衛まで禁じられたのではありません(パワハラ!)。「キリストは…不当にも振りかかってくる侮辱を避けることを禁じておられるのではない。」(カルヴァン)  「右の頬を打つなら…ほかの頬を向けてやりなさい」と言われる主ですが、平手で打った下役に対して、「なぜわたしを打つのか」(ヨハネ18:23)と抗議されました。

「あなたを(裁判に)訴えて、下着を取ろうとする者」や、「しいて一マイル行かせようとする」ローマ兵や(→27:32)、「求める者…借りようとする者」に対しても、「悪をもって悪に報いず…できる限りすべての人と平和に」(ローマ12:17以下)過ごすべきです。

 十字架上で「イエスをののしった」(27:44)強盗の一人が悔い改めた時、「わたしと一緒にパラダイスにいる」(ルカ23:43)と約束された主が、私たちに語られます。神からの「くしき平和」が、私たちの「心の緒琴」(讃531番)に共鳴して、私たちも平和を歌います。

 

 

 

 

 

2018.11.25

  隣り人を愛し、敵を憎め

           マタイ548

 

 律法の中で一番大切な戒めについて、主イエスは第1に「神を愛せよ」とされ、第2は「隣り人を愛せよ」だと答えられます(→22:34以下)。私たちが誰に対しても愛を示して欲しいのです。

 当時のユダヤ人は、「隣り人を愛し、敵を憎め」と言っていたらしいのです。前者は旧約聖書にはっきり言われています(→レビ19:18、出エジプト23:4)。しかし、後者は時代と共に言われるようになっていたのでしょう(「たてまえ」と「ほんね」!)。誰でも敵に苦しめられる経験は容易ではありません(→ヨブ記12:4「友の物笑いとなっている」ヨブ)。それでも主は、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と、神の御子としての権威をもって語られるのです。

 それは「天にいますあなたがたの父(なる神)の子となるため」です。「わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受け」(ローマ5:10)て神の子とされたのですから、「悪い者の上にも…太陽をのぼらせ…正しくない者にも雨を降らしてくださる」

 天の父に似るべきなのです。

「自分を愛する者を愛する…兄弟だけにあいさつする」ことは「取税人…異邦人」でも出来ます。「律法学者やパリサイ人にまさって」(5:20)いる者となるために、「天の父が完全であられるように…完全な者」を目指しましょう(「棒ほど願って針ほど叶う」!)。

 主はご自分を十字架につけた者たちのために「父よ、彼らをおゆるしください」(ルカ23:34)と祈られましたが、ステパノも石で打たれつつ「この罪を彼らに負わせないで下さい」(使徒7:60)と真似ます。「主イエスの建てし愛の国」(讃234番)は広がって行きます。