2023.1.1

 

あなたは…箱舟を造りなさい…」

創世記6:14


 昨年、主日礼拝や祈祷会で教えられた中から、今年の「年間聖句」を選びました。三つの聖書個所から、主は小さくて弱い者にも目をとめて、用いてくださる御方である、ということを教えられま

 第一は「二人の目は遮られていて、イエスとは分からなかった」(ルカ24:16)です。クレオパとその妻(→レンブラント「エマオのキリスト」)は、エルサレムで主が十字架で殺されるのを見てから絶望的になって、自分たちの家に帰って行きます。その途中で主が彼らと共に歩んで声をかけ。彼らの家で食事の席に着いた時、「二人の目が開け」ます。「すぐさま二人は立ってエルサレムへ戻り、他の弟子たちを励ますのです。

 第二は「主はヨセフと共におられ…牢獄長の目に適うようにされた」(創世記39:21)です。兄たちにエジプトへ奴隷として売られたヨセフですが、ポティファルの家で良い立場を得ます。しかし、主人の妻に言い寄られて、それを拒んだは牢獄に入れられます(政生兄の「教科書に載らない話」!)。そういう最低の所から主は救われます(総理大臣に!)。

 第三は「あなたは…箱舟を造りなさい」(創世記6:17)です。「アダム物語」の中で、カインは弟のアベルを殺してエデンの東のノドに追放されますが、そこで都市を築き、息子たちも大成功します。一方、アベルの後に生まれたセトの子孫の方は影が薄い存在です。しかし主は、カインの子孫が悪に傾くのを見て洪水で滅ぼすことを決意し、ノアに「あなたは…箱舟を造りなさい」と命じられるのです(ウクライナの教会の働き!)。

 主はペトロに「あなたは…私に従いなさい」(ヨハネ21章)と命じられます(ヨハネの使命は別!)。「驚くばかりの恵み」(新聖歌233番)が「この身の汚れを知れる我」に与えらたことを賛美する者は幸いです。










2023.1.8


キリスト・イエスの僕…」

ローマ書1:1-7


 創世記の「アダム物語」から教えられて、人間の罪と救いについてパウロの手紙から学びたいと思います。最初の挨拶の部分で、パウロは自分がキリストの僕としてどんなに喜んで仕えているかを語ります。

 パウロはこの手紙を第3回目の伝道旅行の終わり頃にコリントから書いています(→聖書地図№12)。パウロの手紙は彼が良く知っている教会に宛てたものが多いのですが(フィリピ書!)、ローマの教会には行ったことがないので、まず自己紹介をします。自分は①「キリスト・イエスの僕(奴隷)であり、②「使徒として召され」、③「神の福音のために選び出された」者だと感謝します(→使徒9章→マタイ5章「敵を愛し」)。

 彼メッセージは、①「聖書(OTの中で…あらかじめ約束されたもの」であり、②「御子は、肉によれば…ダビデの子孫」、③「聖なる霊によれば…神の子」であり、「この方が、私たちの主(救い主)イエス・キリスト」と明快です。「これは比類なく美しい一句である。」(カルヴァン) ファリサイ派の訓練が役立っています(→使徒22章「ガマリエルの門下」)。

 彼は「異邦人の使徒」(→使徒9章)として、「すべての異邦人を…導くために」任命されたことをバルナバと共に実行して来ました(→使徒13章「アンティオキア教会の異邦人伝道」)。ローマ教会の「あなた方も異邦人の中にあって…キリストのものとなった」のですから、自分の経験とタレント(バイリンガル!)を活かして、彼らに福音を伝えたいのです。「恵みと平和」という挨拶は他の手紙と同じです(→フィリピ1章)。

 パウロが「キリスト・イエスの僕(奴隷)」であると言って誇れるのは主人が素晴らしいからです(→「アンクル・トム」の最初の主人)。私たちも「いとも賢しイエスの恵み」(讃502番)と歌いつつ仕えます。  

 





2023.1.15


ぜひ福音を告げ知らせたい…」

ローマ書1:15


 パウロはまだ行ったことのないローマの教会人々に、まず自己紹介をし、その次に何故自分が彼らのところに行きたいのかを語ります。それは自分が信じている福音を、どうしても彼らに告げ知らせたいからです。

 パウロはいつも彼らのために祈っています(牧師の祈り!)。先ず「あなた方の信仰が世界中に語り伝えられている」ことを感謝します(マタイ5章「山の上にある町」→ほめ殺し!)。次に「神が証してくださること」ですが「あなたがたことを絶えず思い起こし…あなたがたの所へ行く道が開かれるように」といつも願っているのです(感謝と願い!)。

 彼の目的はローマ教会のトップリーダーになることではなく(→15章「イスパニア伝道の途中」→下司の勘ぐり!)、「霊の賜物を…分け与えて、力づけ(堅固にし)たい」ということで、「というよりも(いやむしろ!)…お互いに…共に励まし合いたい」からですピアノの競演)。牧師と信徒の関係もそうあるべきです(→フィリピ2章「相手を自分より優れた者とする」)。「神の教会には、我々に益をもたらすことが出来ないほどに賜物に乏しい者は一人もいない。」(カルヴァン)

 「きょうだいたち、ぜひ知っておいてほしい」と呼びかけて、自分には「ギリシャ人にも未開の人にも…果たすべき責任があります」と語ります。「異邦人の使徒」である彼は、どんな相手にも語ることが出来ます(井上ひさしの文章論!)。それだけの経験を重ねて来た者として、「ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたい」のです。

 パウロはローマの教会を堅固な建物のようにしたいのです(お節介者と思われても!)。自分が「あまつ真清水」(讃217番)によって生かされているので、それを多くの人に注ぎたいのです。

 







2023.1.22


「私は福音を恥としません…」

ローマ書1:16-17


 ここからパウロは、この手紙の本文に入ります(15:13まで)。その最初に、自分が信じている福音を賛美します。キリストの福音はどんな人間でも救うことが出来るので、賛美せずにはおれないのです。

 彼は「福音」(良い知らせ!)という言葉が好きなようです。主イエスは「神の国は近づいた…福音を信じなさい」(マルコ1章)と言って人々を招かれました。預言者イザヤはバビロンの捕囚からの解放を告げる伝令について、「なんと美しいことか、山々の上で良い知らせ(福音)を告げる者の足は」(イザヤ52章)と賛美します。パウロも同じです。

 彼は福音の中に「神の力」(デュナミス→ダイナマイト)を見ました。彼自身が「ユダヤ人」(宗教的エリート)であり、同時に「ギリシャ人」(文化的エリート)であったのに、「信じる者すべてに救いをもたらす」その力に打ち砕かれる経験をしました(ダマスコの回心!)。今の彼は「キリストのゆえに…すべてを…屑」(フィリピ3章)と考えています。

 さらに福音には「神の義」(罪人を義とする→「アダム物語」)が「(神の)真実により(人間の)信仰へと啓示されて」います。「義は信仰によって受け取られる。」(カルヴァン) アッシリア帝国が弱体化するとすぐにバビロニア帝国が起こったのを見て失望するユダヤ人たちに(一難去ってまた一難!)、預言者は「遅くなっても待ち望め…正しき人はその信仰によって生きる」(ハバクク2章)と励まします。異邦人の看守に対してパウロは「主イエスを信じなさい…そうすれば…救われます」(使徒16章)と勧めるのです(松山静牧師「日本人も洋服を着る」)。

 パウロ自身、アテネで恥ずかしい思いをしても、大胆にキリストの復活の福音を語りました(→使徒17章)。福音を信じる者は、どんな時でも「イエス君は、いと麗し…」(讃166番)と賛美するのです。






2023.1.29


「神は天から怒りを現されます…」

ローマ書1:18-23


 アダム以来、人間は間違った生き方をするようになりました(人の罪!)。主なる神は、そういう人間の生き方に対してはっきりと「ノー」と言って、立ち直らせようとされます。罪に対しては怒られる神です。

 パウロは先ず、「神は天から怒りを現されます」(→17節「神の義の啓示」と言って、それもまた福音だとします(昔の「カミナリ親父」の温かさ!)。間違った生き方をする人間を放っておかないで、「不義によって真理を妨げる(押さえつける)人間」を裁かれます(「無理が通れば道理が引っ込む」世界!)。「あらゆる不敬虔と不義」(間違った信仰と生活)に「ノー」と言われます(→マルコ1章「悔い改めて…」)。

 先ず「不敬虔」が問題です(→当時の地中海世界の現実)。「神について知りうる事柄は明らか」であって、「世界の創造以来、被造物を通してはっきり認められる」(→詩19編「天は神の栄光を語る」)のにも関わらず「神として崇めることも感謝することもせず…心が鈍く暗くなって」います(→使徒17章「アテネのアレオパゴスでのパウロの説教」)。「人間の目はかくも美しい絵のような世界を見て、これを描いた作者(神)ご自身へと導かれるために授けられた。」(カルヴァン)

 すべての人間が「自分では知恵ある者と称しながら愚かになり」(→創世記3章「神のように善悪を知る者」)、神の栄光を…滅ぶべき人間や鳥や獣や地を這うものなどに似せた像と取り換え」てしまいました(→使徒19章「エフェソの女神アルテミスの神殿」→府中の「首無地蔵」)。

 神は罪に対して怒るだけでなく、悔い改めて和解して欲しいのです(→Ⅱコリント5章「神の和解を受け入れなさい」→執り成す母親)。「尊き御神よ」(讃258番)と呼びつつ、悔い改める者は幸いです。