2023.4.2


「私を信じる者は、死んでも生きる...」
                                               ヨハネ11:17-27

主イエスはラザロが死んだ後でマルタとマリアの所に来られます。姉 妹としては恨みごとを言いたいくらいでしょうが、マルタは主が愛と力 に満ちた救い主だと信じています(→ルカ 10 章「働くマルタ」)。
主が到着された時「ラザロは墓に葬られてすでに四日もたって」いま した。「べタ二アはエルサレムに近く、十五スタディオン(約3km)ほ ど」なので、「大勢のユダヤ人が...慰めようとして来て」います。「ラザ ロとその姉妹たちの家は名誉ある大家だった。」(カルヴァン) 「マル タは...迎えに行ったが、マリアは家で座っていた」と対照的です。
マルタは「主よ、もしここにいてくださいましたら...死ななかったで しょうに」と恨みごとをいいますが、「あなたが神にお願いすることは ...かなえてくださると、私は今でも承知しています」と主への信頼を表 明します(→新聖歌 346 番「かつては我」→シンプソン「賜物より与 え主」)。主が「あなたの兄弟は復活する」と言われても、「終りの日の 復活の時に復活することは存じています」と平凡な信仰を表明します。
主は「私は復活(させる者)であり、命(を与える者)である」と大 きな宣言をされます(→キリスト教墓地の墓碑銘)。さらに詳しく「私 を信じる者は、死んでも生きる」と約束されます。「生きていて...信じ る者」は死なないとして、「このことを信じるか」と問われると、マル タは「はい、主よ...あなたが...神の子、メシアであると私は信じていま す」と全面的な信頼を告白します(直観的信仰!→人格的信頼)。
主イエスを信じる者は「死んでも生きる」ことが出来ます(→ヨハネ 15 章「ぶどうの木に結ばれた枝」)。子どものように「主我を愛す、主 は強ければ」(讃 461 番)と歌う者は、「死んでも生きる」のです。






2023.4.9

 

ラザロ、出て来なさい…」

         ヨハネ11:2844


 マリアは家に残っていましたが、主イエスに呼ばれて出て来ます。彼女は自分の悲しみに負けてただ泣くばかりです。主は復活者の力をもって、すでに死んでいたラザロを生かし、ご自分の力を示されます。

「マリアは…イエスのもとに行った」のですが、ユダヤ人たちが「墓に行って泣くのだろうと思った」とあるほど、彼女は悲しみで一杯です。

その様子を見て、主は「憤りを覚え、心を騒がせ」られます。「彼女の言葉の中には悪徳と言うべきものがあった。」(カルヴァン) 死に負けないで欲しいのです(「しっかり食べて、笑っています」!)。

 ラザロの墓の前に来ると、「イエスは涙を流された」とあります(聖書の中で一番短い節!)。主ご自身も、人間としての感情を持っておられるのです(→ヘブライ4章「人間の弱さに同情する大祭司」)。ユダヤ人の好意的な反応だけでなく、批判的な反応も見て「再び憤りを覚えて」、主は墓の入り口の石を取りのけさせようとされます。今度はマルタが「主よ、もう臭います」と、肉親の情に負けて、以前のような強さを忘れています(動揺する信仰!)。

 そういう中でも主は変わらず、「父よ、私の願いを聞き入れてくださって感謝します」と、すでラザロのための祈りが天の父によって聞かれていることを確信しておられます(→2日間待つ間)。墓の中に入ることもしないで主は「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれます(→創世記1章「光あれ、と言われた」)。ラザロがその声に応じて復活して出てくると「ほどいてやって…」と彼らを復活の証人にされます。

 パウロは世の終りの時の「死者の復活」の話をし、「いつも主の業に励みなさい」(Ⅰコリント15章)と勧めます(希望がある!)。「主の死に生かされ」(讃146番)る私たちは「ハレルヤ」と歌うのです。    








2023.4.16


「アブラハムの信仰…」

          ローマ412


 罪を解決するために神の御子が来てくださったので、彼を信じる者は誰でも救われる道が開かれました。パウロは、ユダヤ人でなくても信仰さえあれば神の民にしてもらえるのだ、と語ります(合格者の喜び!)。

 全世界に唯一の神がおられて、ご自分の民を選ばれるのですが、それはユダヤ人だけに限りません(→ヨハネ1章「神の子となる権能」)。パウロは「アブラハムを肉による先祖」としているユダヤ人(自分も!)たちが「選民(エリート)」であると誇ることはできない、と論じます。アブラハム自身が「行いによって義とされた」のではなく(→秀吉と長浜城)、「神を信じ…義と認められた」(創世記15章)とある通りです。

人は「働く者に対する報酬」として神の民とされるではなく(→マタイ20章「ぶどう園の労働者」)、「恵み」によるのであり、「働きがなくても…信仰が義と認められ」るのです。ダビデ王の場合は「行いがなくても(むしろ罪を犯しても!)…義と認められ」て、神の民であることを許され(→サムエル下12章)、その幸いを感謝します(詩32編)。

パウロは「この幸いは割礼のある者(ユダヤ人)だけに与えられるわけではない、と論じます。聖書のクイズとして「信仰と割礼」のどちらが先か」と質問し、「アブラハムは割礼を受ける前に…証印として、割礼の印を受けた」(→創世記17章)と断言します。「ここに聖礼典についての美しい文章がある。」(カルヴァン) 結論として、アブラハムは異邦人とユダヤ人の両方のクリスチャンにとって「父となった」のです。

パウロは改めて「信じる者すべてに救いをもたらす」(1章)福音を賛美せずにおれません。アブラハムにならって私たちも「信仰こそ旅路を導く杖」(讃270番)と歌いつつ、人生の歩みを続けます






2023.4.23

多くの国民の父…」

          ローマ41325


「神は…石ころからでも、アブラハムの子らを造り出」(マタイ3章)されるので、信仰があれば誰でも神の民になれるのです。パウロは、神がアブラハムを信仰を持つ多くの国民の父とされるのだと語ります。

「世界の相続人となるという約束」を神が与えられたのは、人類が「バベルの塔」の事件によって全地に散らされた後でした(→創世記12章)。

その条件は「律法によるのではなく、信仰の義」だけです(贈り物をもらう!)。こうして「アブラハム(「多くの者の父」という意味)のすべての子孫」は「確実に約束にあずかれ」ます。「私はあなたを多くの国民の父とした」(創世記17章)とある通りです(→「箕面船場阪大前駅」)。

 アブラハムの信仰は「死者を生かし、無から有を呼び出される神」を信じて「望み得ないのに望みを抱いて信じ」るほど強いものでした。イサクの誕生を巡って「自分の体がすでに死んだも同然…サラの胎も死んでいる」と知りつつ、なお信じ続けたのです。彼もサラも笑いました(→創世記18章)が、主は彼らの信仰を支えられます。「信仰は自分の弱さ、悲惨さ、欠陥に目を向けないで、専ら神の力に目を向ける。」(カルヴァン)

 パウロは新約の時代の信仰者にとっては、「私たちの主イエスを死者の中から復活させた方」を知っているだけ有利な立場にいることを強調します。「イエスは…死に渡され…私たちが義とされるために復活させられた」お方です。その御方が「私は天と地の一切の権能を授かっている…あなたがたは出て行って…」(マタイ28章)と伝道に派遣されるのです。

 神は「多くの国民(ユダヤ人も異邦人も)の父」とアブラハムを呼ばれます世界中に30%のクリスチャン!)。「四方(よも)の国より選ばれ」(讃191番)た神の民の群れ(教会)に加えられたことを感謝します。










2023.4.30

 

神との間に平和を得て…」


                              

       ローマ5:1ー11

            


章までで「福音とは何か」を語って来たパウロが、5章からは「福音に生きるとは何か」を語ります(8章まで!)。彼は先ず、救われて神の民とされた者は神との平和を得て喜んで生きるのだ、と語ります。

クリスチャンは「神との間に平和を得」た者たちです(ビリー・グラハム『神との平和』)。彼らは「今(立っているこの)恵みに信仰によって導き入れられ…希望を誇りにして(勝ち誇るようにして喜んで)るのです(→「サウンド・オブ・ミュージック」トラップ大佐とその家族のスイスへの亡命)。「私のみじめな、混乱した魂にとってこれは丁度、ダマスコ途上でタルソのパウロを照らした光のようでした。」(A.B.シンプソン「救い主イエス・キリスト」→「四重の福音」)。

彼らは「苦難をも誇り」とします。「苦難が忍耐を…忍耐が品格(口語訳「練達」)を…品格が希望を生む」と前向きです。「神の愛は…上等のソースのように苦難を喜ばしいものに変える。」(カルヴァン) 私たちが「正しい人」でも「善い人」でもなく「罪人であった時…死んでくださった」キリストの愛が励ましです(→ヨハネ15章「友のために命を」)。

将来についても「キリストによって神の怒りから救われる」と信じています(→マタイ3章「差し迫った神の怒り」)。「敵であった時でさえ、御子の死によって神と和解させていただいた」のですから、これからも「御子の命によって救われる」と確信できるのです(→Ⅱコリント5章「キリストに代わってお願いします。神の和解を受け入れなさい。」)。

家に帰って父親と和解した放蕩息子(ルカ15章)のように、神と仲直りする者は幸いです。やがて栄光に輝く神の前に出る時も、「安かれわが心よ」(讃298番)と歌って行くのです。