2019.8.4



■「名をサラと言いなさい

          創世記27


 17章の後半では、アブラハムの妻サライのことが中心になります。主なる神は、25年も待たされていたこの夫婦に対して、いよいよ約束を実行され、彼らはその大きな恵みに圧倒され、戸惑います。

 主は先ずアブラハムに、「あなたの妻サライは…名をサラと言いなさい」と命じられます。彼女は「ひとりの男の子」を産み、「国々の民の母」となるからです。それを聞いて、「アブラハムはひれ伏し」て同意しますが、そのあと「笑い、心の中で言った」とあります。「私は…彼が驚愕(きょうがく)した人のようであったと思う。」(カルヴァン) 驚きの余り自分を見失い、「どうかイシマエルがあなたの前に生きながらえますように」と口走りますが、「彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた」(ローマ4:18)のです。

 主は、「いや(そうではない)」と、はっきりイシマエルではなく、それとは全く別にサラが子を産むのだ、と言われます。さらに具体的に、「来年の今ごろサラがあなたに産むイサクと、わたしは契約を立てる」と、疑いようのない言い方でこの夫婦を祝福されます。主の恵みが2人を圧倒するのです(「盆と正月が一緒に来た」!)。

 これで正式に契約が成立し、主は「(天に)のぼられ」ます。地上では、「アブラハムの家の人々のうち、すべての男子を連れてきて、前の皮に割礼を施し」ます(→14:14「家の子318人」)。アブラハムの家族が神の家族とされ、イサクがその中に加わります(洗礼!)。

   「サライ(私の王女)」という父親が付けた名前を、主はもっと多くの人々のための王女(「サラ」)と変えさせられます。大きな恵みを受けて、「御神と共に進め」(讃445番)と力強く前進するのです。

 


2019.8.11



■「生きている者の神

        マタイ福音書222333


 召天者記念礼拝なので、主イエスが語られた「死人の復活」について取り上げます。主イエスは、私たちが死んでも魂は生きて神と共にあり、やがて復活すると、生きることが出来る道へと招かれます。

 エルサレムの宗教指導者たちが「イエスを言葉のわなにかけよう」(15節)とやって来る中で、「(死人の)復活ということはないと主張していたサドカイ人たち(大祭司サドクの子孫)」は、長男が死んでその妻を次々にめとった7人兄弟の話をします(→申命記25:5)。

   「復活の時には、この女は7人のうちの誰の妻なのでしょうか」と架空の話をして、主を困らせようとします。彼らは神殿礼拝に関わる冨裕層でこの世で満足しています(→5章「こころの貧しい人たち」)。

 それに対して主は、「あなたがたは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」と厳しい言い方をされます。彼らは自分の好きな聖書の箇所だけを読んで、勝手な解釈をしています。たとえば、バビロン捕囚の民に語られた「枯れた骨の谷」(エゼキエル書37章)の話を読めば、「神の力」が死人も生かすことがわかるはずです。

 もっと一般的なモーセの「燃え尽きない柴」(出エジプト記3章の話では、主なる神はご自分を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と言われて、彼らがエジプトで苦しんでいる子孫のために神に訴えている、とされます。「厳密に言えば、主は、生きている者以外の神と呼ばれることはあり得ない」(カルヴァン)

 召天者たちも神の前で生きていて、復活の日を待っています。私たちはそういう希望を持ち、「また会う日まで」(讃405番)と歌いつつ「神ともにいまして」と、それぞれの人生を歩みます。

 


2019.8.18



■「サラに男の子が生れて

            創世記1815

 主は再び「マムレのテレビンの木のかたわらでアブラハムに現れられ」ます(→17:1)。前回はアブラハムだけに語られましたが、今回は特に妻のサラに対して、恵み深く語られます。

 この時、主なる神は2人の天使を従えた旅人の姿で来られます。それを見たアブラハムは、「わが主よ…この木の下でお休みください」と言って甲斐甲斐しくもてなします。サラにも「麦粉3セア(24ℓ)をとり…パンを造りなさい」と言います(夫唱婦随!)。この信仰者夫婦は、「気づかないで御使たちをもてなした」(ヘブル13:2)のです(→マタイ25:40「わたしにした」と言ってくださる主)。

 「あなたの妻サラはどこに…」と訊かれて、アブラハムは「天幕の中です」と答えますが、実際は「サラはうしろの方の天幕の入口で聞いていた」のです(ユーモラス!)。彼女に聞こえるように主は「来年の春…サラには男の子が生れているでしょう」と、はっきり言われます。良いニュースを直接に聞かせたいのです。

 サラにとっては嬉しいニュースですが、「年がすすみ、老人となり…」という現実を考えると(高齢出産!)、「心の中で笑って」しまうしかありません。「何か大きな困難があると、神の約束が私たちにはおとぎ話のように思えてしまうのである。」(カルヴァン) 「主にとって不可能なこと(素晴し過ぎること!)がありましょうか」と言われて、彼女は信じます(→ヘブル11:11「サラの信仰」)。

 サラの笑いは喜びの笑いになり、素晴しいことをしてくださる主と語ります。主イエスを宿したマリヤも、「数に足らぬわが身なれど捨てず」(讃95番)と感謝し、「わが心は…喜ぶ」と歌うのです。


2019.8.25

■「わたしはいま一度申します

           創世記1833


 おめでたい話のあとで、ソドムの町が滅ぼされるという話になります。アブラハムはロトと家族のいるその町を助けようとし、主なる神はそういう彼の執り成しの言葉に耳を傾けてくださいます。

 主と2人の天使は、ヘブロンから「ソドムの方に向かって」行き、「アブラハムは彼らを見送って共に行った」(丁重なおもてなし!)のですが、そういう「主と共に歩む」生き方が主の心を動かします。

   主は、「地のすべての民が…彼によって祝福を受ける」(→12:2)ために彼を召されたことを思い、「ソドム…罪は重い」のを放っておけないという心配事を、彼に打ち明けられます(神の信頼!)。

 天使達が去ったあと、「アブラハムは…(主に)近寄って」勇気を奮って語ります。「あの町に50人の正しい者があっても…ゆるされないのですか」と彼らに同情し、「全地をさばく者(神)は公義を行うべきではありませんか」と、神をたしなめるような言い方までするのです(「負うた子に教えられる親」が子どもの成長を喜ぶ!)。

 主はそういうアブラハムの願い(「執り成しの祈り」)に対して、「もしソドムの町の中に50人の正しい者があったら…すべてゆるそう」と寛大な心を示されます。自分は「ちり灰に過ぎませんが」と恐縮しつつも、「その中の五人欠けたら…」という調子で語ります。「彼は…詭弁家のように、神をからかっているかのように見える。」(カルヴァン) そして主は「十人のためにも滅ぼさない」御方です。

 アブラハムは「いま一度申します」と言いながら、そのあとはもう主にお任せするのです(私たちの祈りも!)。「慈しみ深き友なるイエス」(讃312番)も、私たちの「心の嘆き」を執り成す御方です。