2021.9.5


「イサクは…井戸を再び掘った…」

         創世記212


  これまでは脇役のようだったイサクが、26章では主役になります(「イサク物語」!)。アブラハムと同じようなことをするのですが(→21章以下)、主なる神は弱々しくて優しいイサクを祝福されます。

 飢饉を避けてゲラルの地に滞在することになったイサク一家は「その地に種をまいて、その年に百倍の収穫を得」るほどに祝福されますが、住民に嫉妬されてそこを去り、「ゲラルの谷に天幕を張って…アブラハムの時に人々が掘った水の井戸を再び掘」ります。そこでも「ゲラルの羊飼いたち」に追われますが、「エセク(争い)…シテナ(敵対)…レホボテ(広場)…」と名前を付けるほどユーモアがあります(寛容なイサク!)。

 飢饉が終わって元の場所に帰って来たイサクに、「あなたは恐れてはならない」と励まし祝福されます。彼は「その所に祭壇を築いて、主の名を呼び、そこに天幕を張った」とあるように、自分の信仰を証しする生活を始めるのです。「聖なる人たちはどんな場所でも神を礼拝したが、信仰というものは人々の前での証しを必要とするのである。」(カルヴァン)
 ゲラルの王アビメレクがイサクを訪ねて来て「われわれは主があなたと共におられるのを、はっきりました」と言って、平和協定を結ぼうとします。まことに自分勝手な申し出ですがイサクは相手を責めようとはしません(平和を愛するイサク!)。彼らと一緒に食事をし、「彼らは…穏やかに去った」とあります。アブラハムの時に掘った井戸を僕たちが見つけたので、改めて「ベエルシバ」(→21:31「誓いの井戸」)と呼びます。

イサクは出来るだけ平和な方法で解決しようとします(→アフガニスタンで用水路を掘る中村哲医師)。「静けき河の岸辺」ではなく「憂き悩みの荒海」を渡る時でも「神によりて安し」(讃520番)と歌いたいのです。

 





2021.9.12


わたしはあなたを祝福しよう…」

       創世記229


イサクが年老いた時の話です。彼は長男のエサウに祝福を与えようとしますが、リベカとヤコブが策略によって祝福を奪い取ります。主なる神は信仰者たちの美しくない現実の中でも、着々と救いの業を進められます。

『イサクは…長子エサウを呼んで…』とあるように、神の託宣を知っていたのに(→25章「兄は弟に仕える」)、世間的な常識と自分の好みによって行動します(信仰者の現実!)。「わたしは年老いて…死ぬ前にあなたを祝福しよう」と言い、「しかの肉(獲物)をとってきて食べさせよ」と、体力を付けて最後の仕事をしようとします(人生の大事な決断!)。

その話を「リベカは聞いて」います(→18章「サラの立ち聞き」)。彼女は素早く大胆に行動します。ヤコブに命じてやぎの子を取って来させて料理し、「エサウの晴れ着を取って、弟ヤコブに着せ…子やぎの皮を手と首のなめらかな所とにつけさせ」ます。ヤコブは呪いを受けることを恐れますが、「のろいはわたしが受けます」と断言します。彼女の行動問題があります。それにもかかわらず、一人の女性の偽りを通して神はご自身の計画を遂行されのである。」(カルヴァン)

ヤコブは、①声の問題(「声はヤコブ」)②手触りの問題(「手はエサウ」)③時間の問題(「こんなに早く」)④匂いの問題(「着物のかおり」)、をクリアします。イサクはすっかり信じて「もろもろの民はあなたに仕え…身をかがめる」と、アブラハムの祝福(→12章「祝福の基」)を与えます。

その祝福は本物です(迫害下で棄教した司祭による洗礼も有効!)

 イサクが間違っても、主なる神はそれを用いてヤコブに祝福を与えられます(→教会の土地探し)。私たちが間違っても、「主よ我をば捕らえ(捕虜にし)たまえ」(讃333番)と歌いつつ、主の導きに従うのです。






2021.9.19

       

彼が祝福得るであろう…」

       創世記230―40


 ヤコブが出て行った後、すぐにエサウが来て祝福を求めるので、イサクは自分の誤りに気が付いて悔い改めます。エサウは激しく怒ります。主なる神は、ヤコブを祝福されますが、エサウにもそれを喜んで欲しいのです。

 「イサクがヤコブを祝福し終わって」とあるように、それは完了しています(スポーツの勝敗!)。遅れてきたエサウが「わたしを祝福してください」と言うので、自分の失敗に気付いたイサクは「激しくふるえ(驚愕)」ます(→ルカ5章「ペテロの恐れ」)。信仰を回復したイサクはエサウの頼みには応じないで「彼(ヤコブ)が祝福を得る」と断言します。

 それでも納得しないエサウはイサクに「わたしを、わたしを祝福してください」としつこく訴えます。ヤコブのことも「二度までもわたしを押しのけた」と、「よくもヤコブ(かかとをつかむ者)と名づけたものだ」と文句を言います。挙句の果てには「わたしのために祝福を残しておかれませんでしたか」と、神の祝福を軽んじるような言い方までします(敗者の潔さが大切!)。彼は「自分のまいたものを刈り取る」(ガラテヤ6章)のです(→へブル12章「涙を流してそれを求めたが…」)。

 イサクはエサウに教えて「わたしは彼(ヤコブ)をあなたの主人とし…(祝福を)授けた」と確認します。「あなたはつるぎをもって世を渡り…弟に仕え…くびきを払い落す」としても、祝福はヤコブのものだと認めるべきです。「もしエサウが本当に幸いを願っていたのなら、ヤコブという泉からそれをくみ取るべきであった。」(カルヴァン)

 ヤコブが祝福を得たとわかった時、イサクはそれを認めて従います。信仰の仲間が受けた祝福を快く認めて「飼い主わが主よ」と賛美しつつ、お互いに「我らは主のもの」(讃354番)喜びたいのです。







2021.9.26


イサクはヤコブを送り出し…」

       創世記21―28:9


 エサウの怒りによって、ヤコブの身に危険が及ぶのを恐れたリベカは、彼を旅に出そうとします。主なる神は人間のいろいろな思いを導いてヤコブを旅に出し、信仰的に成長させられます(「可愛い子には旅」!)。

 「エサウ父(イサク)がヤコブに与えた祝福のゆえに…憎んだ」とありますが、それは主の御心だったのです。それに思い至らない彼は「父の喪の日も遠くないであろう」と父の死を待つのです。「その時、弟ヤコブを殺そう」と考えて「みずから慰めて」(→新共同訳「恨みを晴らそうとして」)います。後に彼は「カナンの娘が父イサクの心にかなわないのを見」て「イシマエルの娘」を妻にしますが、信仰的ではありません。

 それを知ったリベカはすぐに行動します。「ハランにいる私の兄ラバンのもとに逃れ(→24章「鼻輪と腕輪を見て」)…しばらく彼にところにいなさい」とヤコブに言い「わたしは一日のうちにあなたがたふたりを失ってよいでしょうか」と、母親としての気持を訴えます。

 リベカは夫イサクの心を動かそうとして、ヤコブにハランから妻を迎えさせたいと言い、イサクも同意します(心を一つにする夫婦!)。イサクは改めてヤコブに対して「全能の神が、あなたを祝福し…」とはっきり祝福を告げます。「特に重要なのは、ここでヤコブが遂に父親によって、良く理解した上で祝福されたことである。」(カルヴァン) 「こうして、イサクはヤコブを送り出した」とあるように、ここではイサクが信仰者としてすっかり立ち直っている姿を見ることができます。

 送り出されるヤコブは、苦しい旅に出るのですが、神の祝福を受けて生きる道に進むのです。「また会う日まで」と歌いつつ「神と共に居まして行く道を守り」(讃405番)と祈って送り出す勇気と信仰が必要です。