2019.11.3



■「聖書の中に永遠の命がある

         ヨハネ5:3340


「宗教改革記念礼拝」の時、プロテスタント教会によって聖書が学者の手から一般の信仰者の手に取り戻されたことを覚えましょう(→ルターのドイツ語訳聖書)。今ではカトリックとの共同訳も出て、私たちは誰でも聖書を読んで主イエスの救いを知ることが出来ます。

バプテスマのヨハネは「燃えて輝くあかり」として、「真理(主イエスの救い)についてあかし(証)」をしました(→グリューバルトの絵「ヨハネの指」)。私たちも「輝く星」(ピリピ2:15)として主を証しするのです。しかしそれだけでは、「しばらくの間その光のもとで喜び楽しむ」ことが出来ても、十分ではありません。

  「もっと力あるあかし」は、「父(なる神)が…お与えになったわざ(業)です(→5章「ベテスダの病人の癒し」)。あるいは、「父も…わたしについてあかしをされた」(→1章「御霊が下って…」)ということもあります。しかし結局、「神がつかわされた者(主イエス)を信じない」限り、「神の御言は…とどまっていない」ということになります(→ヘブル1:2「御子によって…語られた」)。

 ユダヤ人たちは、「(旧約)聖書の中に永遠の命があると思って…調べて」いますが、「聖書はわたし(主イエス)についてあかしするもの」です。「聖書は、そこにキリストを見出すという意図のもとに読まれなければならない。」(カルヴァン) 主は「命を得るためにわたしのもとに来ようとする」者を求められます(ニコデモ!)。

 聖書という書物を賛美するのではなく、それを読んだり、説き明かし(説教)を聞いたりする中で、生命を受けて、「生命のみことば」(讃501番)を、「たえなるかな…くすしきかな」と歌うのです。



2019.11.10



■「何をすればよいのですか

          ルカ3:714


  ルカは、主イエスの生涯を辿る前に、洗礼者ヨハネの活動から話し始めます(→マルコ1:5-8)。主なる神は、このヨハネを用いて人々を少しでも主イエスに近づきやすい者に変えようとされます。

ヨハネは「彼からバプテスマを受けようとして出てきた群衆」に語りかけます(→マタイ1章「パリサイ人やサドカイ人」)。権力者でなくても、誰でも罪があるのです。ですから、「まむしの子らよ」(→使徒28章「マルタ島でパウロの手にかみついた毒蛇」)と厳しい言い方をし、「神の怒りから、のがれられると」思わないように、自分たちの罪を認めさせようとします(本当の親のように!)。

 大切なのは、「悔改めにふさわしい実を結ぶ」ことです。ユダヤ人たちは、「自分たちの父にはアブラハムがある」とひそかに考えています。「彼らは口に出しては自慢しないが…心の中でこの肩書きを誇っていた。」(カルヴァン) しかし、「神はこれらの石ころ(エベニ―ム)からでも、アブラハムの子ら(ベニーム)を起こすことるのです。「斧がすでに(枯れつつある)木の根もとに置かれて」いて、実を結ばなければ「火の中に投げ込まれ」ます。

 ここまで聞いていた人々は怖くなって、「わたしたちは何をすればよいのですか」と質問します。それに対してヨハネは、①「下着…食物を持っている者」、②「取税人」、③「兵卒たち(ユダヤ人)」が、それぞれ自分の出来る愛の行為をするように、と勧めます。

 「何をすれば…」と言っても、それは誰にでも出来るような小さな業です。父なる神は「檻(おり)を離れ…さまよう羊」(讃247番)となった人々を遠くから近くから帰って来させたいのです。

 


2019.11.17



■「わたしよりも力のある方

          ルカ3:1522

 洗礼者ヨハネの活動についてのルカの記事は、ここで一区切りします。ヨハネは主イエスを心から尊敬しています。主なる神は、ヨハネの活動を通して、主イエスを神の御子であると信じさせたいのです。

「(ユダヤ人の)民衆は救主(メシア)を待ち望んで」います(歴史家ルカ!)。自分はメシアではないとして、ヨハネは主イエスを「わたしよりも力のある方」だと紹介します。①水によるバプテスマと聖霊によるバプテスマ、②「くつのひもを解く」者とその主人(ぞうり取り!)、③箕(み)で麦とからを分ける者(裁き主!)、というようなイメージで、主イエスを表現するほど謙遜です。

 ヨハネは、「さまざまな勧めをし、民衆に教を説いた(福音を告げた)」のですが、彼の活動期間が残り少ないことを感じていたのでしょう。「領主ヘロデ(アンティパス)は兄弟(ピリポ)の妻ヘロデヤのことで…ヨハネから非難されて…獄に閉じ込め」ます(→マルコ6章「マケラス城」)。彼は時を惜しんで伝道するのです。

 その前に、彼はヨルダン川で主イエスに出会い、洗礼を授けます。「イエスもバプテスマ(罪のゆるしのための!)を受けて祈って」おられます(罪人とされて!)。「人間としての非常な困難な戦いに入られる時、彼は聖霊の力によって武装される必要があった。」 (カルヴァン)祈りに応えて、「聖霊がはとのように…天から(父なる神の)声が…」主を励まします。ヨハネが大きな働きをしたのです。

 いつも他人との比較の中で生きている私たちが、「この御方はすごいんです」と安心して言える所が教会です。「君は谷のゆり、明日の星」(讃512番)と賛美しながら、心を通わせることが出来ます。

 

 

2019.11.24



■「その子をヨハネと名づけなさい

         ルカ1:125

 クリスマスの物語の最初に、洗礼者ヨハネの誕生の話が来ます。ルカは「詳しく調べ」た上で、主なる神が私たち人間を救うために、考えられないほど大きな計画を実行される、恵み深い方だと語ります。

歴史家らしく、ルカは「ユダヤの王ヘロデの世に」(BC37~4年)、と語り出します。「祭司で名をザカリヤという者が…正しい人で…」と紹介されます(→ルカ16:10「小事に忠実な人」)。彼は神殿の当番になり、「香をたいている間…主の御使が…香壇の右に立った」のを見て、「おじ惑い、恐怖の念に襲われ」ます(神を畏れる人!)。

天使は、「恐れるな…あなたの祈が聞きいれられた…妻エリサベツは男の子を産む…」と伝えます。ザカリヤとしては、イスラエルの救いを祈ったのでしょうが、子どもの誕生が告げられます。彼はやがて「主のみまえに大いなる者となり…エリヤの霊と力をもって(→マラキ4:5)…整えられた民を主に備える」でしょう。主は、私たちが「求め…思うところ」(エペソ3:20)以上のことをされます。

この「喜ばしい知らせ」をすぐに信じられないザカリヤは「口がきけなく」なり、聖所の外に出ても祝福の言葉が出ません。一方で、「妻エリサベツはみごもり…ひきこもって」いましたが(高齢出産!)、元気になって、「主は…わたしを心にかけてくださった」と感謝します(→ローマ8:31「神が…味方であるなら…」)。

「ヨハネ」(→ヘブル語「ヨハナン」)は「主は恵み深い」という意味です。「この名はヨハネ個人だけではなく、彼の使命がすべての人々にもたらす恵みを意味している。」(カルヴァン「恵み深き(讃525番)が共にいて下さると歌う者は強くなれるのです。