2020.6.14
■「人が全世界をもうけても…」
ルカ9:18-27
五千人を養った出来事の後、主イエスは弟子たちと共に北方へ「逃避行」をされます(→マルコ6:45以下)が、そういう中で、ご自分がメシヤであることを明らかにされます(→マルコ8:27以下)。
主は、静かな場所で弟子たちに大切な質問をするために「ひとりで祈」られます(→マルコ8章「ピリポ・カイザリアの村々」。群衆は主について「バプテスマのヨハネ…エリヤ…預言者…」と考えていますが(→9章「領主ヘロデの情報」、大事なのは「あなたがた(弟子たち)はわたし(主イエス)をだれと言うか」です。「このキリストの声こそいつも私たちの耳に響いているべきだ。」(カルヴァン)
ペテロが代表して、「神のキリスト(メシヤ)です」と明確に答えます(→7:19「きたるべきかた」)。主は喜ばれますが、(→マタイ16章「あなたはさいわいである」、さらに「人の子(主イエス)は必ず多くの苦しみを受け…殺され…三日目によみがえる」と、教えられます。十分でなくても信仰をもって応える者は幸いです(洗礼!)。
主は「みんなの者」に、主に従って歩む者は「自分を捨て、日々自分の十字架を負う」生活をすべきだと語られます(刑場まで十字架を担ぐ罪人!)。苦しくても、「自分の命を救う者…自分自身を失う者…わたし(主)とわたしの言葉とを恥じる者」にならないようにと警告した上で、そうすれば、「神の国(の大きな発展の姿)を見る」ことが出来るのだ、と励まされます(→ローマ5章「希望は…」)。
「全世界をもうける」ほど大きな成功をするよりも、永遠の命を得る者の方が幸いです(横田夫妻の証し!)。主イエスから受けた十字架を担ぎながら「み神の国…富…愛」(讃336番)を喜ぶのです。
2020.6.21
■「人が全世界をもうけても…」
ルカ9:18-27
五千人を養った出来事の後、主イエスは弟子たちと共に北方へ「逃避行」をされます(→マルコ6:45以下)が、そういう中で、ご自分がメシヤであることを明らかにされます(→マルコ8:27以下)。
主は、静かな場所で弟子たちに大切な質問をするために「ひとりで祈」られます(→マルコ8章「ピリポ・カイザリアの村々」。群衆は主について「バプテスマのヨハネ…エリヤ…預言者…」と考えていますが(→9章「領主ヘロデの情報」、大事なのは「あなたがた(弟子たち)はわたし(主イエス)をだれと言うか」です。「このキリストの声こそいつも私たちの耳に響いているべきだ。」(カルヴァン)
ペテロが代表して、「神のキリスト(メシヤ)です」と明確に答えます(→7:19「きたるべきかた」)。主は喜ばれますが、(→マタイ16章「あなたはさいわいである」、さらに「人の子(主イエス)は必ず多くの苦しみを受け…殺され…三日目によみがえる」と、教えられます。十分でなくても信仰をもって応える者は幸いです(洗礼!)。
主は「みんなの者」に、主に従って歩む者は「自分を捨て、日々自分の十字架を負う」生活をすべきだと語られます(刑場まで十字架を担ぐ罪人!)。苦しくても、「自分の命を救う者…自分自身を失う者…わたし(主)とわたしの言葉とを恥じる者」にならないようにと警告した上で、そうすれば、「神の国(の大きな発展の姿)を見る」ことl が出来るのだ、と励まされます(→ローマ5章「希望は…」)。
「全世界をもうける」ほど大きな成功をするよりも、永遠の命を得る者の方が幸いです(横田夫妻の証し!)。主イエスから受けた十字架を担ぎながら「み神の国…富…愛」(讃336番)を喜ぶのです。
2020.6.28
■「不信仰な、曲った時代…」
ルカ9:37-43a
山上の「姿変わり」の翌日、山を降りて来られた主イエスは、地上の世界の暗さを嘆かれます(ラファエロの絵!)。主は人間の弱さや不信仰を知りつつ、それでも助けてくださる神の御子です。
ある父親が主イエスを見て訴えます。「先生…わたしのむすこを見てやってください…霊が取りつき…あわを吹かせ…出ていかないのです」と言います(→マタイ17章「てんかんで苦しんで」)。残念なことに「お弟子たちに…願いましたが、できませんでした」とも言います。そういう現実に直面して、主はがっかりされたに違いありません(→出エジプト32章「シナイ山から下りたモーセの怒り」)。
主は、「ああ、なんという不信仰な、曲った時代であろう」と嘆かれます(今の時代全体に対して!)。弟子たちにしても、「悪霊を制し、病気をいやす力と権威」(9:1)を授けていただいていたのに、簡単にあきらめてしまいます(弱い信仰!)。「いつまで…我慢ができようか」と言いつつ、「ここに連れて来なさい」と招かれます。
ところが、「その子がイエスのところに来る時にも、悪霊が彼を引き倒し…」という有様です。しかし、主は「この汚れた霊をしかりつけ…いやして、父親にお渡しに」なります。その子の苦しみは「幼い時から」(マルコ9:21)であると聞いて、主は同情されます(→ヨハネ9章「生れつきの盲人」)。「この苦しみは個人の罪の故に与えられたのではなく、隠れた神の決定による。」(カルヴァン)
主は、私たちが不信仰にならず、御言葉から離れて「曲った時代」の風潮に流されないようにと願われます(→使徒20:30)。「わが魂を愛するイエス」(讃273番)がいてくださるので大丈夫です。
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