2020.6.7



■「五つのパンと二ひきの魚…」
          ルカ9:10-17

 ガリラヤの各地の「伝道実習」から帰って来た弟子たちを迎えて、主イエスは安全な場所へ行こうとされます。主は、大きな危険の中でも、一人一人を助けてくださる神の御子です。
 弟子たちは「自分たちのしたことをすべてイエスに話し」ます。それを喜んで聞いた上で、主は「彼らを連れて、ベツサイダ(ピリポの領地)という町へひそかに退」こうとされます。ところが「(ガリラヤの)群衆がついて来た」ので、「これを迎えて…語り聞かせ…いやされ」ます。「キリストは、熱心さの故に家を離れて寂しい所までやって来るような飢えた魂(人々)を見られた。」(カルヴァン)
 ところが、「日が傾きかけ」たので、弟子たちは「群衆を解散して…宿を…食物を…」と心配しますが、主は「あなたがたの手で食物をやりなさい」と命じられます。しかし、「男が五千人ばかり」もいる現実の中で、彼らは「食物を買いに行く」にしても、そのお金(→マルコ6章「二百デナリ」)もありません(貧しい教会!)。
 しかし主は、「五十人ずつの組にしてすわらせなさい」(→7:36「宴会の座り方」)と命じられ、「五つのパンと二ひきの魚」(→ヨハネ6章「子供の弁当」)を祝福し、「弟子たちに渡して配らせ」られると「みんなの者は食べて満腹」します(体も心も満足!)。さらに「余りくず…十二かご」一杯です(弟子たちの弁当?)。主は豊かな方なのです(→タプハにある「パンと魚の増加教会」)。
 粗末なパンと魚の食事でも、主が祝福してくださる時に、大宴会のようになります。「主はわたしの牧者」(詩23篇)と父なる神を讃え、「我らを守りて養いやまえ」(讃354番)と子なる神に祈るのです。
  


2020.6.14



■「人が全世界をもうけても…」

          ルカ9:18-27


五千人を養った出来事の後、主イエスは弟子たちと共に北方へ「逃避行」をされます(→マルコ645以下)が、そういう中で、ご自分がメシヤであることを明らかにされます(→マルコ827以下)。

主は、静かな場所で弟子たちに大切な質問をするために「ひとりで祈」られます(→マルコ8章「ピリポ・カイザリアの村々」。群衆は主について「バプテスマのヨハネ…エリヤ…預言者…」と考えていますが(→9章「領主ヘロデの情報」、大事なのは「あなたがた(弟子たち)はわたし(主イエス)をだれと言うか」です。「このキリストの声こそいつも私たちの耳に響いているべきだ。」(カルヴァン)

 ペテロが代表して、「神のキリスト(メシヤ)です」と明確に答えます(→719「きたるべきかた」)。主は喜ばれますが、(→マタイ16章「あなたはさいわいである」、さらに「人の子(主イエス)は必ず多くの苦しみを受け…殺され…三日目によみがえる」と、教えられます。十分でなくても信仰をもって応える者は幸いです(洗礼!)。

 主は「みんなの者」に、主に従って歩む者は「自分を捨て、日々分の十字架を負う」生活をすべきだと語られます(刑場まで十字架を担ぐ罪人!)。苦しくても、「自分の命を救う者…自分自身を失う者…わたし(主)とわたしの言葉とを恥じる者」にならないようにと警告した上で、そうすれば、「神の国(の大きな発展の姿)を見る」ことが出来るのだ、と励まされます(→ローマ5章「希望は…」)。

 「全世界をもうける」ほど大きな成功をするよりも、永遠の命を得る者の方が幸いです(横田夫妻の証し!)。主イエスから受けた十字架を担ぎながら「み神の国…富…愛」(讃336番)を喜ぶのです。



  

 





2020.6.21



■「人が全世界をもうけても…」

         ルカ9:18-27


五千人を養った出来事の後、主イエスは弟子たちと共に北方へ「逃避行」をされます(→マルコ645以下)が、そういう中で、ご自分がメシヤであることを明らかにされます(→マルコ827以下)。

 主は、静かな場所で弟子たちに大切な質問をするために「ひとりで祈」られます(→マルコ8章「ピリポ・カイザリアの村々」。群衆は主について「バプテスマのヨハネ…エリヤ…預言者…」と考えていますが(→9章「領主ヘロデの情報」、大事なのは「あなたがた(弟子たち)はわたし(主イエス)をだれと言うか」です。「このキリストの声こそいつも私たちの耳に響いているべきだ。」(カルヴァン)

 ペテロが代表して、「神のキリスト(メシヤ)です」と明確に答えます(→719「きたるべきかた」)。主は喜ばれますが、(→マタイ16章「あなたはさいわいである」、さらに「人の子(主イエス)は必ず多くの苦しみを受け…殺され…三日目によみがえる」と、教えられます。十分でなくても信仰をもって応える者は幸いです(洗礼!)。

 主は「みんなの者」に、主に従って歩む者は「自分を捨て、日々分の十字架を負う」生活をすべきだと語られます(刑場まで十字架を担ぐ罪人!)。苦しくても、「自分の命を救う者…自分自身を失う者…わたし(主)とわたしの言葉とを恥じる者」にならないようにと警告した上で、そうすれば、「神の国(の大きな発展の姿)を見る」ことl  が出来るのだ、と励まされます(→ローマ5章「希望は…」)。

 「全世界をもうける」ほど大きな成功をするよりも、永遠の命を得る者の方が幸いです(横田夫妻の証し!)。主イエスから受けた十字架を担ぎながら「み神の国…富…愛」(讃336番)を喜ぶのです。

  






2020.6.28

 

■「不信仰な、曲った時代…」

            ルカ9:37-43a

 

山上の「姿変わり」の翌日、山を降りて来られた主イエスは、地上の世界の暗さを嘆かれます(ラファエロの絵!)。主は人間の弱さや不信仰を知りつつ、それでも助けてくださる神の御子です。

ある父親が主イエスを見て訴えます。「先生…わたしのむすこを見てやってください…霊が取りつき…あわを吹かせ…出ていかないのです」と言います(→マタイ17章「てんかんで苦しんで」)。残念なことに「お弟子たちに…願いましたが、できませんでした」とも言います。そういう現実に直面して、主はがっかりされたに違いありません(→出エジプト32章「シナイ山から下りたモーセの怒り」)。

 主は、「ああ、なんという不信仰な、曲った時代であろう」と嘆かれます(今の時代全体に対して!)。弟子たちにしても、「悪霊を制し、病気をいやす力と権威」(91)を授けていただいていたのに、簡単にあきらめてしまいます(弱い信仰!)。「いつまで…我慢ができようか」と言いつつ、「ここに連れて来なさい」と招かれます。

 ところが、「その子がイエスのところに来る時にも、悪霊が彼を引き倒し…」という有様です。しかし、主は「この汚れた霊をしかりつけ…いやして、父親にお渡しに」なります。その子の苦しみは「幼い時から」(マルコ921)であると聞いて、主は同情されます(→ヨハネ9章「生れつきの盲人」)。「この苦しみは個人の罪の故に与えられたのではなく、隠れた神の決定による。」(カルヴァン)

 主は、私たちが不信仰にならず、御言葉から離れて「曲った時代」の風潮に流されないようにと願われます(→使徒2030)。「わが魂を愛するイエス」(讃273番)がいてくださるので大丈夫です。