2019.4.7



■「狭い門からはいれ

            マタイ713-23

 主イエスは、世の中へ出て行く弟子たちが誘惑に会うことを心配されます(→4章「荒野の誘惑」)。彼らがそれに負けないで、信仰を全うして、天の御国に入れるように、厳しく教えられます。

 「狭き門」と言うと、入門の厳しさを想像します(大学入試や夏目漱石の『門』!)が、「キリストはここで弟子たち狭い道を通って行く用意をすべきだと忠告しておられる」(カルヴァン)のです(信仰的選択!)。主の教えに従う「命に至る門は狭く、その道は細」くても、「主よ御手もて」(讃285番)と歩む人は幸いです。

 信仰生涯の中で「にせ預言者」にだまされないことも大切です。旧約時代にもいましたが(→エレミヤ6:14)、「羊の囲いに…ほかの所からのり越えて来る者」(ヨハネ10:1)が問題です。「その実によって彼らを見分ける」必要がありますが、それは難しいのです。「カルヴァンの流れを汲む…シンプソン」(「教会案内リーフレット」)とい先輩から学びましょう(→ピリピ3:17「わたしにならう者」)。

 「天にいますわが父の御旨を行う者」であることが大切ですが、それは生涯の終わりまで続けなくてはなりません。「主よ、主よ…預言し…悪霊を追い出し…力あるわざを行ったではありませんか」と過去のことを誇っても、今はどうか、が問題です。「思慮の浅い女たち」が、終わりの時に「油を用意していなかった」(マタイ25:3)ように、言葉だけ「主よ、主よ」と言う者ではいけないのです。

 「狭い門…細い道」を選んで歩む者の生涯を、主は祝福されます。

 「主よ、おわりまで仕えまつらん」(讃338番)と歌いつつ、歩み続けるのです(→バンヤン「天国への旅」)。





2019.4.14


■「エリ、エリ、レマ、サバクタニ

            マタイ45-56


 マタイ福音書の受難記事を読みましょう。主イエスは、十字架にかかって死なれます。神の御子が、私たちを救うためにどれほど苦しんでくださったのか、それを語ります(→マルコ15:33-41)。

 朝の9時に十字架にかけられて、「昼の12時から地上の全面が暗くなって、3時に及んだ」のです(砂漠からの「シロッコ風」!)。その暗闇の中で、主は「エリ、エリ…わが神、わが神…わたしをお見捨てになったのですか」と苦しみを訴えられます(→詩22篇「めじかのしらべにあわせたダビデの訴え」)。「キリストは…神の裁きの座に罪ある者として出なければならなかった。」(カルヴァン) 私たちの罪を引き受けられたからです(→3章「主イエスの受洗」)。

 「エリヤを呼んでいる」(→列王下2章「天に昇るエリヤ」)という者や、「酸いぶどう酒」(清涼飲料!)を差し出す者もいますが、主は孤独です。それでも最後には、「大声で叫んで、ついに息を引きとられ」ます(→ルカ23章「父よ、わたしの霊を御手に」)。

 主の死に続いて、不思議なことが起こります。「地震があり、岩が裂け」たりして、「神殿の幕が…真二つに裂け」ます(→ヘブル10:19「はばかることなく聖所に入る」)。「墓が開け、…聖徒たちが…多くの人たちに現れ」ます(復活のリハーサル!)。「この人は神の子であった」と告白する百卒長や、「遠くの方から見ている女たち」など、すでに復活を予想させる勝利の響きがあります。

 マルコは「エロイ、エロイ」(15:34)と、当時のユダヤ人が日常使っていたアラム語で記しましたが、マタイは厳密に主が聖書のヘブル語で父なる神に訴えられたと記します。その心を知って、「主の苦しみは我がためなり」(讃136番)と歌うのです。





2019.4.21



■「いつもあなたがたと共に

            マタイ16-20



 マタイ福音書の復活記事を読みましょう。エルサレムで復活された主イエスは、ガリラヤで弟子たちに会い、原点に帰って、世界に向けての伝道を開始しようとされます(→マルコ16:1-8)。

 主に命じられた通り、「11人の弟子たちはガリラヤへ行って…山に登った」のですが(「山上の説教」の山?)、十分に心の準備が出来ていたわけではありません。彼らは、「イエスに会って拝し」ますが、「疑う者もいた」という有様です(私たちも同じ!)。

   そういう彼らに、主の方から「近づいて」くださいます。「キリストの接近は、疑いもなく弟子たちのすべての躊躇を取り除いた。」(カルヴァン) さらに、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた」、と力強く宣言されます(→ピリピ2章キリ

ストの高挙」)。その上で、「あなたがたは行って、すべての国民を弟子としなさい」と「宣教大命令」を与えられます(→「教会案内リーフレット」<アライアンスのモットー>)。

 伝道には大切なルールがあります。「父と子と聖霊との名によって…バプテスマを施す」こと(無教会主義の問題!)、主が「命じておいたいっさいのことを守るように教える」こと(教会教育の必要!)の2つです。そして、「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束されます。クリスマスの時、「インマヌエル(神われらと共に)」(マタイ1:23)として来られた主です。

 ダマスコのヨハネ(8世紀の東方正教会の聖人)と共に、「今日イス君はよみがえれり」(讃154番)と、主の復活の日を力強く歌いしょう(→神田のニコライ堂「復活(アナスタシス)大聖堂」)。




2019.4.28

■「その教に驚いた

            マタイ24-29

   「山上の説教」のしめくくりとして、主イエスは、弟子たちが自分の信仰生活という建物(小さな教会!)を、主の教えという土台の上にしっかり建てて欲しい、と語られます(→Ⅰコリント3:10)。

 これまで主が語られた「これらの言葉を聞いて行うもの」は、「岩の上に自分の家を建てた賢い人(→25章「思慮深い女たち」)に比べることができ」ます(大工イエス!)。土台がしっかりしているので、「洪水が押し寄せ、風が…打ちつけても」倒れません。「試練がやって来るまで、真の信仰深さとうわべだけのそれとは区別できない(カルヴァン) 牧師も信徒も、よく学ぶことが大切です。

 その反対は、「砂の上に自分の家を建てた愚かな人(→「思慮のい女たち」)に比べることができ」ます(「ワジ(水無し川)」の中に建てた家!)。試練が来ると耐えられず、「その倒れ方はひどい」のです(→基礎工事より外観にお金をかける業者)。信仰の成長のためには時間をかける必要があります(受洗後のクリスチャン生活!)。

 主は「言を語り終え」て山を降りて行かれますが、人々は「ひどく驚いた」とあります。律法学者たちは伝統に従って語るだけですが、主は「…しかし、わたしはあなたがたに言う」(5:22)と、「(神としての)権威ある者のように」語られたからです(→28:18)。これほど確かな指導者を持つ者は幸いです(設計の仕事!)。

 「ひどく驚く」(amaze)というのは、ただ主の権威に驚いたというのではなく、「驚くべき恵み」(amazing graceに圧倒されたのです。

 このような救い主を知った者は、「わが君イエスこそ救いの岩なれ」(讃280番)と歌って、信仰生活建設に励むのです。