2022.8.7


永遠の命に至る水…」

ヨハネ福音書415


 「召天者記念礼拝」なので、使徒ヨハネが晩年になって書いた福音書の中から、「主イエスとサマリアの女」の話から学びましょう。主イエスは疲れ乾いている者に、永遠の命の水を与えたいのです。

 この時、主イエスには「サマリアを通らねばならなかった」という事情がありました(ユダヤ人は通らない!)。そこには「(先祖)ヤコブの井戸」があり、「正午ごろ…サマリアの女が水を汲みに来」ます(人目を避けて!)。

主が「水を飲ませてください」と頼まれ、彼女は驚きますが、主は彼女が生活に疲れて心が乾いているのを見抜かれます(私たちの人生!)。

 主は単刀直入に「もしあなたが神の賜物(→3章「独り子を賜る神」)を…『水をください』と言ったのが誰(神の御子!)であるか知っていたなら…その人から行ける水をもらったであろう」と申し出られます。「自分の不幸に呻き、喘いでいても、すぐに手に入る救いの望みがないならば、何の役にも立たない。」(カルヴァン) 彼女はまさに救いの恵みを受けるべき千載一遇(せんざいいちぐう→千年に一回しか会えないような事のチャンスに出会っているのですそして、「どこからその生ける水を手にお入れになるのですか」と興味を示します(彼女の積極性!)。

 主は「私が与える水は決して乾かない」と普通の水ではないことを示し、

「私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命(天国でも生きられる命)に至る水が湧き出る」と約束されます。彼女は「ここに汲みに来なくてもいいように」とユーモラスな言い方をしつつ、「主よ、渇くことがないように…その水をください」と申し出ます(希望が生まれる!)

 主は「永遠の命に至る水」を誰にでも与えたいのです(そのチャンスを生かしたたち!)。「行けども…ただ砂原」(讃244番)のような人生の中で「命の泉に来たりて飲め」という招きに応じる者は幸いです。永遠の命に至る水…」

ヨハネ福音書415(先週の説教から)

 「召天者記念礼拝」なので、使徒ヨハネが晩年になって書いた福音書の中から、「主イエスとサマリアの女」の話から学びましょう。主イエスは疲れ乾いている者に、永遠の命の水を与えたいのです。

 この時、主イエスには「サマリアを通らねばならなかった」という事情がありました(ユダヤ人は通らない!)。そこには「(先祖)ヤコブの井戸」があり、「正午ごろ…サマリアの女が水を汲みに来」ます(人目を避けて!)。

主が「水を飲ませてください」と頼まれ、彼女は驚きますが、主は彼女が生活に疲れて心が乾いているのを見抜かれます(私たちの人生!)。

 主は単刀直入に「もしあなたが神の賜物(→3章「独り子を賜る神」)を…『水をください』と言ったのが誰(神の御子!)であるか知っていたなら…その人から行ける水をもらったであろう」と申し出られます。「自分の不幸に呻き、喘いでいても、すぐに手に入る救いの望みがないならば、何の役にも立たない。」(カルヴァン) 彼女はまさに救いの恵みを受けるべき千載一遇(せんざいいちぐう→千年に一回しか会えないような事のチャンスに出会っているのですそして、「どこからその生ける水を手にお入れになるのですか」と興味を示します(彼女の積極性!)。

 主は「私が与える水は決して乾かない」と普通の水ではないことを示し、

「私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命(天国でも生きられる命)に至る水が湧き出る」と約束されます。彼女は「ここに汲みに来なくてもいいように」とユーモラスな言い方をしつつ、「主よ、渇くことがないように…その水をください」と申し出ます(希望が生まれる!)

 主は「永遠の命に至る水」を誰にでも与えたいのです(そのチャンスを生かしたたち!)。「行けども…ただ砂原」(讃244番)のような人生の中で「命の泉に来たりて飲め」という招きに応じる者は幸いです。






2022.8.14


 

天の大空に…光るものがあり…」

創世記11419


 天地創造の第4日(水)には「光るもの」(イルミネーション)が作られます。第1日の「光の創造」は根源的な光ですが、それとは別に神は天体に光るものを作って、人間が生活しやすいようにされます。

 神が「光るもの」を作られる目的は、①「昼と夜とを分ける」ため(目に見える形で!)、②「季節(春夏秋冬の変化!)や「日」(祝日!)や「年」(歴史!)のしるしとなる」ため、③「地上を照らす」(明るくする!)ためです。「聖書記者は神学者たるにふさわしく、天体よりも私たち人間に注意を払っている。」(カルヴァン) それによって私たちの生活にリズムが生まれ、喜びが与えられます(炎天下の高校生や竹林の涼しさ)。

 「神は二つの大きな光るものを造(作)られた」とあり、常識的なこととして、「昼を治める大きな光るもの」(太陽)と「夜を治める小さな光るもの」(月)が取り上げられます(月は自分では光らない!)。それらが神より大きい力を持つことはありません(→申命記4章「天の万象の礼拝禁止」。「また星(たち)」も作られますが、それらが地上の人間を支配する力はありません(→占星術→占いに集まる若者たち)。

 「神は…それらを天の大空(ラキーア)に置かれた」とあるように、地上のどこからでも見える位置(ポジション)です。「太陽は花婿のように祝いの部屋を出て…喜び勇んで道を駆け抜ける」(詩19編)という様子を見ることが出来て、私たちは励まされるのです(→マタイ5章「あなた方の光を人々の前に輝かせなさい」)。

 神が「光るもの」を作ってくださったために、私たちの心は明るくされます(冬空に温かいイルミネーション!)。「朝日のうららに匂い…月星ほのめき」(讃74番)と歌いつつ、力を受ける者は幸いです。







2022.8.21

 

生き物で満ち溢れ…」

創世記12025


 天地創造の第5日目(木)と第6日目(金)の前半では「生き物」(アニマル→アニメーション)が登場します。人間に近いものです。神は世界の仕組みが出来たので、そこに生き物たちを創造し、祝福されます。

 「神は言われた」とありますが、新しい意気込みが感じられます。ここでは久し振りに「創造」(バーラー)という言葉が使われます。「水は群がる生き物で満ち溢れ」と水中の動物たちが現れ、「鳥は地の上、天の大空を飛べ」と、空中の動物たちが現れます。静かだった世界がにぎやかになり、活気に満ちたものになります(赤ちゃんの声や動き!)。

 神は第1に「大きな海の怪獣」(→ヨナ2章「巨大な魚」→ヨブ4章「レビヤタン」)を、第2に「水に群がうごめくあらゆる生き物」(魚類)を、第3に「翼のあるあらゆる鳥」(鳥類)を創造されます。第3日目の植物と違って、神は「産めよ、増えよ」と言って「祝福」されます(→創世記12章「アブラハムの祝福」→マタイ28章「世界伝道」)。「神は彼らに御言葉によって繁殖する力を吹き入れられるのである。」(カルヴァン) 

 第6日目に神は、第1に「家畜」(牛や羊やペット)を、第2に「這うもの」(爬虫類や昆虫→「箱舟に入る海亀」)を、第3に「地の獣」(野生動物)を「それぞれの種類に従って造られ」ます。ここでは「祝福」という言葉がありませんが、神は当然そうされたと考えて良いでしょう。そして「神は見て良しとされた」と満足されます(→マイスターの仕事「細工は流々仕上げを御覧じろ」→「神様の気持ちがわかる」!)。

 神はこの世界が「生き物で満ち溢れる」ようになることを喜ばれます(教会も!→クンバ牧師「日曜学校の生徒が増えます」)。「ここ(地上)も神の御国なれば」(讃90番)と歌いつつ生きる者は幸いです。


 









2022.8.28

 

神は人を自分のかたちに創造された…」

創世記1262:4


 天地創造の日目(後半では「人」(アーダーム)が造られます。人間は「万物の霊長」と言われます(→メルケル元首相「人間の尊厳」)。神は天地創造の最後に人間を造り、それに満足して休まれます。

 しばらく間をおいて、神は「我々のかたち(文語「像」)に、我々の姿に人を造ろう」と言われます(三位一体の神の自問自答!)。それは外形ではなく(神に肉体はない!)、神のご性質の事です。「人間は神の被造物の中で特別に神の知恵慈しみの例証である。」(カルヴァン) また「あらゆるものを治めさせよう」という役目も与えられます。その「神の像」は残念ながら人間の堕落によって失われてしまったので、「真人間」は主イエスだけです(→エフェソ4章「新しい人を着なさい」)。

 計画通りに「神は人を自分のかたちに…男と女に創造(バーラー)」され、「産めよ、増えよ、地に満ちて、これを従わせよ」と祝福されます。そして「全地の面にある…あらゆる草と…木」を食物として与え(動物にも!)、「極めて良かった」と満足されます。 自然を「従わせる」という大きな特権が与えられます(→詩8篇「人とは何者」→長男の責任)。

 こうして「天と地と…森羅万象が完成した」(建物と家具!)ので、「第七の日(土)に…すべての業を終えて休まれ」ます(職人が完成品をチェックして安心するように!)。そして神は「第七の日を祝福し、聖別」して安息の日とされます(親が休んで子どもと遊ぶように!)。最後に「これが天と地が創造された次第である」と締めくくられます。

 神は人間が御自分に似た者となることを願われます(「お父ちゃん子、お母ちゃん子」!)。「山辺に向かいて」(讃301番)と歌いつつ、「助けは…御神より我に来る」と子どものように信頼する者は幸いです。