2020.4.5



■「すべてが終った

       ヨハネ192330


  使徒ヨハネは「イエスの愛しておられた者」(ヨハネ13:23)ですが、自分の目で十字架の主を見た者として書いています。主イエスはご自分のすべてを与えて私たちを救ってくださる神の御子です。

十字架につけられた時、主の上着は番をする兵卒たちが「四つに分け」て取り、「縫い目がなく…一つに織った」下着(肌着)は彼らが「くじ引き」にします(→詩22:18)。主は私たちを救うためにそれほどに貧しくなられます(→讃121番「すべての物を与えし末…」)。

そこには他の婦人たちと一緒に母マリヤもいます。主は彼女に「ごらんなさい。これはあなたの子です」と「愛弟子」を紹介し、彼には「これはあなたの母です」と託されます。「この時以来、この弟子はイエスの母を自分の家に引き」取ります(→エペソにある「マリヤの家」)。「キリストは父なる神に服従されたが、母親に対するをもおろそかにはされなかった。」(カルヴァン) 息子としての責任も弟子に託すしかなかったのです(「親に先立つ不孝」!)。

 やがて死の時が来て、主は「万事が終った」ことを知り、「わたしは、かわく」と飲み物を求められます。兵卒たちは「酸いぶどう酒(水で薄めた飲み物)をさし出し」ます。それは「聖書が全うされるため」でした(→詩69:21「かわいた時に酢を飲ませた」)。粗末な飲み物を受けた上で、主は私たちには溢れるほどに良い物を与えてくださるのです(→ヨハネ10:10「羊に命を…豊かに得させるため」)。

  「すべてが終った」(聖書協会共同訳「完了した」)と、「世の罪を取り除く神の小羊」(1:29)である主は、勝利の叫びを挙げられます。「栄えの主イエスの十字架」(讃142番)を賛美すべきです。





2020.4.12



■「イエスはよみがえって

          マルコ16


 マルコは最初に福音書を書きましたので、シンプルで臨場感があります。アリマタヤのヨセフの墓(→15:42-47)からの主イエスの復活は、人々を驚き恐れさせるほど大きな出来事です。

金曜日に十字架で死なれた主イエスのために「香料を買い求めた」女性たちが、日曜日の朝、「日の出のころ墓に行」きます。「墓の入口から石をころがしてくれる」人のことも考えていません。「彼女たちは聖なる熱心さによって盲目になっていたので、神はその失敗を責められない。」(カルヴァン) 「石は非常に大きかった」のですが、「す

でに転がして」あります(愚かな信仰者を助ける神!)。

 主の遺体を捜して墓に入ると、「右手に真白な長い衣を着た若者」(天使→神の代理者)がいるのを見て、彼女たちは「非常に驚」きます(腰を抜かすほど!)。天使「驚くことはない…ナザレ人イエスは…ここにはおられない」と、主の復活のニュースを告げます(→CSルス『魔女とライオン』の復活の場面→女の子たちの驚き)。

 そのニュースを「弟子たちと(特に失敗した)ペテロ」に告げると共に、「イエスは…ガリラヤへ…お会いできるであろう」と約束を思い出させます(→14:28)。女性たちは「おののき…逃げ去った…恐ろしかったからである」という言い方で、マルコは中途半端な終わ方をしているように見えます(→マタイ28:8)。しかし、主イエス復活に直面した者は、驚き恐れつつ賛美するしかないのです。

 天使の言い方も、「イエスはよみがえって…」とシンプルです。それ以上の説明はいらないのです。イースターの時、「よろずの民、喜べや」(讃151番)と呼びかけて「人の命かぎりなし」と喜びます。








2020.4.19




■「きたるべきかた

         ルカ71835


  主イエスの伝道活動の話を、洗礼者ヨハネは「獄中で」(マタイ11:2)聞きます(→マケラス城)。主は、ご自分のことも、ヨハネのことも、人々が正しく理解して受け容れて欲しいと願われます。

ヨハネは、「『きたるべきかた』(メシヤ)はあなたなのですか」と弟子たちに質問させます。彼は大きな力で世界を変えるようなメシヤを期待していたので、イメージが合わないのです。主はご自分のことを、「盲人は見え…貧しい人々は福音を聞かさせている」(→イザヤ35、61章)として、苦しむ者を体を張って助けるメシヤだ、とされます。

 誰も「わたしにつまずかない者」であって欲しいのです。

 主はヨハネのことを評価されます。彼は「風に揺らぐ葦」でも「柔らかに着物をまとった人」でもなく(その反対!)、メシヤのために「道を整え」(マラキ3章)る働きをする「預言者以上の者」です。

 彼に従った民衆は「バプテスマを受けて神の正しいことを認め」たのですが、彼は新しい「神の国」では古いタイプです(モーセ!)。

 問題は「バプテスマを受けないで…神のみこころを無にした」ユダヤ人の中の「今の時代の人々」(指導者たち)です。「我ら笛吹けども汝ら踊らず…」(文語)と、自分たちの思い通りにならないと言って批判します(禁欲的なヨハネと解放的なイエス!)。「神は私たちをきつけるために、いかなる種類のメロディや音も…悲しい歌も試みられるのに…石同然に心を動かされない。」(カルヴァン)

 主は「まことの光」(ヨハネ1章)として来られました。喜んでこのメシヤを受け容れて、「イエス君は、いとうるわし」(最も美しい主イエス)と賛美する者は幸いです(讃166番)。





 



2020.4.26     

 

■「多くゆるしてもらった

         ルカ73650


 ガリラヤ伝道の中で、主イエスがパリサイ人シモンの家で食事しておられた時、「罪の女」が主に香油を注ぎます(→マルコ14章などとは別の話)。主は罪赦された者の感謝の捧げものを喜ばれます。

主がシモンの家で「食卓に着かれた」時、「その町で罪の女であった者が…泣きながら…(喜びの)涙でイエスの足をぬらし…髪の毛でぬぐい…足に接吻し…香油を塗」ります。「彼女は突然の回心によって、神の御前で以前とは全く違った人となった」(カルヴァン)ので(主に出会って!)、その感謝の気持を伝えたいのです。しかし、シモンは「もし…預言者であるなら…わかるはずだ」と批判的です。

 それを見抜いて、主はたとえ話をされます。「ある金貸しに金をかりた」2人の人物がいます(500デナリと50デナリ→デナリは一日の労賃→マタイ20章の「ぶどう園の労働者」のたとえ)。ところが「ふたり共ゆるし」てもらった場合、「どちらが彼(金貸し→神)を多く愛する」か、ですが、「多くゆるしてもらったほう」というのが正解です。この女性は自分の罪深さを知っています(放蕩娘!)。

主は「シモンに言われ」ます。「あなたは足を洗う水をくれなかった…この女は…」と比較した上で、「この女は多く愛した…多くの罪はゆるされた」として、「あなたの罪はゆるされた」と改めて宣言されます(→5章「罪ゆるされた中風の男」)。そして、「あなたの信仰があなたを救った」と、信仰者として生きるように励まされます。

 私たちは皆、「多くゆるしてもらった」者です(礼拝の中の「罪の告白」)。「いさおなき我」(何の弁解も出来ない罪人)を招いてくださる主に向かって、「みもとに我ゆく」と進み出ます(讃271番)