2022.6.5


「風は思いのままに吹く…」

  ヨハネ福音書315


 ペンテコステなので聖霊の働きについて、使徒ヨハネが伝えているニコデモ話から説教します。ここで主イエスは、人間は誰でも聖霊によって新しく生まれて神の国に入ることが出来るのだ、と語られます。

 「ファリサイ派の一人で…ユダヤ人の指導者(最高法院の議員)であるニコデモが「夜イエスのもとに来」ます(人目を気にする求道者!)。彼は「年を取った者」と自分で言いますが「神の国を見る(入る)」ことを願っています(→高齢者の関心事)。彼の心の中の質問を見抜いて主は「よくよく(真実に)言っておく。人は新たに生まれなければ…」と、神の国で生きるための命を得る必要があると、単刀直入に答えられます。

 「母の胎に入って…」と言うニコデモに対して、主は誰でも水と霊から生まれなければ、神の国に入ることはできない」と言われます。「この水は聖霊であり、私たちを洗い清めて干からびている私たちに天の命を与えるのである。」(カルヴァン) そして「風は思いのままに吹く」ように、聖霊自由に働かれます私たちが地上のことを話しても信じない」のではなく、それを聞いて「天上のこと」をわかって欲しいのです。

 私たちを天に招くために、主は「天から降って来」られました」(クリスマス!)。モーセが荒れ野で蛇を上げ」て毒蛇にかまれた人々がそれを見て癒されたように(→民数記21章→WHOのマーク)、主も「上げられねばならない」のです(→十字架→昇天)。それによって「信じる者が皆…永遠の命を得るため」です(→20章「ヨハネ福音書の執筆目的」)。

 「風は(どこへでも)思いのままに」吹くように、聖霊もどんな人の心でも入って行かれます(「日本男児」!)。「天なる喜び」(讃352番)を携えて来られたが「御国に昇りて御前に伏す」者としてくださいます。

 






2022.6.12

 

エジプトへ売った弟のヨセフ…」

  創世記4528


 ユダが兄弟たちを代表する形で語り、ヨセフの心は動かされ、20年以上も離れていた家族の心が一つになります。主なる神は、ヨセフと彼をエジプトへ売った兄弟たちを和解させ、新しい場所へ導かれます。

 ヨセフは「皆をここから出してくれ」と言って兄弟たちだけを残してから、「私はヨセフです」と告白します。驚いたり、恐れたりする彼らに向かって、「私をここへ売ったこと」について彼らを責めるのではなく、「命を救うために、神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのです」として、神の摂理によるのだと言います(→「政」と「管」)。「ヨセフは実に良く神の摂理を理解している。」(カルヴァン)

 こうして新しくされた家族が、新しい場所で生活することになります。ヨセフは兄弟たちに「急いで父のもとに上り…ためらわずに私の所(エジプト)に下って来てください」と伝えさせます。約束の地であるカナンを離れるのは不安でしょうが、「生き残る者」となるためにそうするべきなのです(ウクライナ難民!→創世記15章「異国の地の寄留者」)。

 幸いファラオも友好的で「エジプトの地の最良の地(→「ゴシェン」を与えると約束してくれます。ヨセフは「ファラオの命令に従って…車…道中の食料…晴れ着」などを与え「途中で争ったりしないでください」と細かい配慮をします。「ヤコブは「呆然とした」(口語訳「気が遠くなった」)ほど驚きますが、「息子のヨセフがまだ生きていた」と喜び、「さあ行って…顔を見たいものだ」と新しい世界に向かって旅立ちます。

 ヨセフは「あなた方がエジプトへ…」と言いつつ「あなたがたではなく、神です」と摂理の神を示します(→ローマ8:28「万事を益とする神」)。「御神の恵みは量り知られず」(讃86番)と歌者は幸いです。








2022.6.19

 

「共にエジプトへやって来た…」

  創世記46:1―34


 46章以下では再びヤコブが活躍するようになりますが、「ヨセフ物語」の続きと考えて良いでしょす。主なる神は、カナンから離れたエジプトの地にいっても、イスラエルの民と共にいてくださる御方です。

 ヤコブは「ベール・シェバ(カナンの南端の町)に着くと、父イサクの神にいけにえを献げ」て礼拝します。先祖以来の約束の地を離れることに不安を覚える彼に主は「私はあなたと共にエジプトに下」ると約束し、「ヨセフがその手であなたのまぶたを閉じる」とまで言われます。勇気百倍して出発した彼らは「皆、共にエジプトにやって来た」のです。

 ここでは「エジプトへ行ったイスラエルの子ら」のリストが挙げられています。「レアが…産んだ子ら…33名」とあり、「ジルパが…産んだのは…16名」とあり、ラケルの子ら…14名」とあり、「ビルハが…産んだのは…7名」とあり、母親が違っても問題ではないようです。「エジプトへ行ったヤコブの家の者は、総勢70名であった」と完全数(7)でまとめられています(→出エジプト1章「全部で70人」)。

 「やがて一行はゴシェンの地に着」き、「ヨセフは父に会うなり、その首にすがってしばらく泣いた」ほどに感激し、ヤコブも「これでもう死んでもよい」と言います。ヨセフはゴシェンの地を確保するために「羊を飼う者」だとファラオに言わせます(「口裏を合わせる」!)。「羊飼いは…エジプト人が忌み嫌う」ことを逆手に取るのです。「こういう不評があることが有益であり…共同体を守ることが出来る。」(カルヴァン)

 「共にエジプトへやって来た」彼らは不安でしょうが、主は共におられます(→マタイ28:20)。「神はわが力」(讃286番)と歌いつつ、「高きやぐら(避け所→Refuge)」に逃げ込む者(難民→Refugee)は幸いです。                                                                    









2022.6.26


ゴシェンの地に住まわせて…」

  創世記4:1―26


 ヤコブと息子たちはエジプトへやって来ます。彼らはファラオに挨拶をし、ゴシェンに住むことを許されます。主なる神は、イスラエルの民を導いてそこでの生活を祝福されます(「案ずるより産むは安し」!)。

 ヨセフはファラオに報告し「兄弟の中から5人を連れて」引き合わせます。ファラオが「あなた方の仕事は何か」と尋ねると、「僕どもは羊飼いです」とヨセフに教えられたとおりに答えます(→46章エジプト人が忌み嫌う。好印象を持ったファラオは「ゴシェンの地に住まわせてください」と頼む彼らに許可を与えるだけでなく、有能な者には「私の家畜を管理する者としなさい」とヨセフに言うほど破格の待遇をします。

 その次に「ヤコブはファラオに祝福の言葉」を述べます(ミス・フランシスと皇后陛下!)。「それは神の僕としての敬虔で聖さに満ちた祈りであった。」(カルヴァン) ファラオが「何歳になったのか」と尋ねると、ヤコブは「異国の地に身を寄せた年月は130年になります」と答えます(→ヘブライ11章「地上ではよそ者」)。「生きた年月は短く、労苦に満ち、先祖たち…には及びません」と自分の未熟さを語ります(気持ちが若い!)。

 この頃のヨセフの飢饉対策の様子が語られます(→教会のコロナ対策)。

「全地に食料がなかった」時、ヨセフは「銀をファラオの宮廷に納め」ます(猫糞をしないで!)。次に「家畜と引き換えに食料を与え」、飢饉の終り頃には「これを地に蒔くがよい」と言って種を与え、人々は「あなたは私たちの命を救ってくださった」と感謝します(指導者ヨセフ!)。

 兄弟たちは「ゴシェンの地に住まわせてください」とヨセフと心を一つにして頼むのです(→マタイ18章「心を合わせて祈る」。平穏な時も苦しい時も神に信頼して「こころ安し」(讃520番)と歌う者は幸いです。