2021.6.6

 

終りはすぐにはこない…」

         ルカ2119


 ご自分の死が近いことを知っておられる主イエスは、遺言のようにして語られます。ここでは世の終わりについて、それは必ず来るがすぐには来ないので忍耐して待つように、と弟子たちに教えられます

「見事な石(→西の壁の巨岩)と奉納物とで宮(神殿)が飾られている」ことに弟子たちは感動します(→ヘロデ大王が46年かけて大改修→ヨハネ2:21)。しかし、主が神殿の破壊を予告されると、「どんな前兆がありますか」(→マルコ13章)と、すぐに立身出世を期待する弟子たちです。

「誰も自分では種を蒔かないのに収穫を得ようとする。」(カルヴァン)

 そんな弟子たちに主は「惑わされないように気をつけなさい」と警告されます(オレオレ詐欺!)。「多くの者がわたしの名を名のって現れ…時が近づいたとか言うでしょう(「文鮮明」や「エホバの証人」!)。「戦争と騒乱とのうわさ…国は国に敵対し…大地震…あちこちに疫病(ルカだけ!)…天からの物すごい前兆」などが次々に起こって、「世界の終わり」が来たように見えても、「終りはすぐにはこない」ので慌ててはいけません。

 しかし「これらのあらゆる出来事のある前に」と主は言われます。「人々は…迫害をし…わたしの名のゆえに王や総督の前にひっぱって行く」でしょう(→AD64年にはネロ皇帝の迫害下でペテロが殉教)。主はそれを「あなたがたがあかしをする機会」とし、「言葉と知恵とを、わたしが授ける」から大丈夫と言われます(主にある楽観主義)。弟子たちが「耐え忍ぶことによって、自分の魂をかち取る」ようになって欲しいのです。

 「終り(終末)はすぐにはこない」ので、世界の出来事に責任を持つべきですし、自分の人生の終わりに備えて生きるべきです。「主よ、終りまで仕えまつらん」(讃338番)と歌いつつ生きるのです。









2021.6.13


「目を覚まして祈っていなさい…」

       ルカ21:20-38


 「小黙示録」(ルカ21:5-36、マルコ13章、マタイ24章)の後半では、主イエスは世の終わりの前触れとしてのエルサレム滅亡を告げ、主の再臨の日が来るので心備えをして生きるように、と語られます。

 「エルサレムが(ローマの)軍隊に包囲されるのを見たならば…滅亡が近づいたとさとりなさい」と、ルカは具体的に書きます(→マルコ13章)。主が「ユダヤにいる人々は山へ逃げよ」と言われた言葉を覚えていたクリスチャンたちは、「ユダヤ戦争」(AD66~70年)の間にヨルダン川の東の「ペラ」という町に逃れて無事でした。その後、「異邦人の時期(教会の異邦人伝道)が満ちるまで」、エルサレムは苦難の時を過ごします。

 それ以来、世の終わりを示すような「日と月と星とに、しるしが現れ…諸国民が悩み…もろもろの天体が揺り動かされ」るので「人々は…恐怖と不安とで気絶する」ような経験をします。やがて、「人の子が雲に乗って来るのを人々は見る」でしょう(主の再臨!)。クリスチャンにとって「救いが近づいている」ので「身を起こし頭をもたげ」るです。

 主は「いちじくの譬」、「芽を出せば…夏が近い」と知るように、これらの現象を見て「神の国が近いのだとさとりなさい」と言われます。天地が滅びても「わたしの言葉は決して滅びることはない」です。「私たちの救いはキリストの約束に土台を置いている。」(カルヴァン) 「思いがけないとき、その日がわな(鳥を取る網)のように…捕えることがない」ように「絶えず…祈っていなさい」と、命じられます。

 「十人のおとめ」(マタイ25章)の譬のように、眠っても日ごろから祈って備えているべきです。「目覚めよ、わが霊(たま)」(讃370番)と歌いつつ、「天に行く馳場(はせば)を走る者は幸いです。








2021.6.20


イエスを引き渡そうと…」

       ルカ21:3722:6


21章までで主イエスの「エルサレムへの旅」と市内での活動の話は終わり、受難と復活の話が始まります。主に対する民衆の支持は強かったのですが、ユダが裏切ることによって十字架への道が開きます。

その頃「イエスは昼のあいだは宮で教え…オリブという山(市内から見える!)で夜をすご」されるほど時間を惜しんで語られます。また、「民衆はみな、み教えを聞こうとして、いつも朝早く宮に行き、イエスのもとに集ま」るほど熱心に聞きます(→19:48「みな熱心にイエスに耳を傾けていた」)。プロテスタント教会はこうありたいものです。

「過越といわれている除酵祭が近づいた」とありますが、の「過越の子羊」として主イエスは殺されるのです(→ヨハネ1:29「世の罪を取り除く神の子羊」)。ユダヤ人の指導者たちは「どうかしてイエスを殺そうと計って」いましたが、「民衆をおそれていた」ために過越祭が終わるのを待つという計画でした(→マルコ13:2「祭の間はいけない」)。

 まさにその時に「十二弟子のひとりで、イスカリオテ(カリオテ出身の人)と呼ばれるユダにサタンがはいった」のです(→4:13「悪魔は…一時イエスを離れた」)。「私たちはもっと早く悔い改めることを学ぼう。長い時間続く心の頑なさがサタンの支配を確立しないように…」(カルヴァン) ユダは「祭司長や宮守がしら(レビ族の神殿隊長)たち」と相談し「金を与える取り決め」(→マタイ26:16「銀貨30枚」)をし、「群衆のいないときにイエスを引き渡そう」と動き始めます。

 「引き渡す」とは「裏切る者」(→22:21)になることです(飼い犬に手を噛まれる主!)。裏切られて十字架に引き渡される主を、「死のほか何も報いられで…敵をゆるししこの人を見よ」(讃121番)と歌うのです。











2021.6.27

 

 

過越の食事をする座敷…」

         ルカ2213


  十字架への道が開いた時、主イエスは弟子たちと共に「最後の晩餐」をされま」す。それは「過越の食事」ですが、主はそれ「切に望んでいた」(22:15)と言われ、そのために心を込めて準備されます。

「過越の子羊をほふ(屠)るべき除酵祭」が近づいていました(→出エジプト12章「傷のない子羊」)。主は「ペテロとヨハネとを使いに出(派遣)」し、「行って、過越の食事ができるように準備しなさい」と命じられます(→マルコ14章「ふたりの弟子」)。ただの準備だからと言って軽んじるべきではありません(→16:10「小事に忠実な人」)。

「どこに準備したらよいのですか」と尋ねるのは、広い場所が必要だからです(→レオナルド「最後の晩餐」)。主はあらかじめ「弟子たちと一緒に食事をする座敷」を、ある家の主人と約束しておられ(→19章「ろばの持ち主たち」)、「水がめを持っている男」が案内役です(見つけにくさ? ユダを警戒?)。当時、水汲みは女性の仕事とされていたので彼は恥ずかしかったでしょう(→教会での奉仕)。

その家の主人は「席の整えられた二階の広間」を見せてくれます(→写真「最後の晩餐の部屋」→使徒1章「ペンテコステの部屋」→使徒12章「マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家」)。多分、福音書を書いたマルコ(→マルコ14章「亜麻布をまとった若者」の父がその主人であり、一家を挙げて主に仕えたのでしょう(→「先生が言っておられる」)
 「キリストの中には、死の直前においても、肉の弱さと同時に神の栄光が現れている。」(カルヴァン) 主にとって、生涯の最後の「自分へのプレゼント」がこの豪華な座敷での食事だったのでしょう。「主よ御手もて引かせたまえ」(讃285番)と歌いつつ、主に奉仕するものは幸いです。