2021.4.4


 ■「死の苦しみから解き放って…」

         使徒2:22


 ルカは福音書に続いて使徒たちの働きを「使徒行伝」として書きました。ペテロはペンテコステの日に集まった群衆に、主なる神は御子イエスを死の苦しみから解き放って復活させられた、と説教します。

 ペテロは「イスラエルの人たちよ」と呼びかけ、「ナザレ人イエス」「数々の力あるわざ…により神からつかわされた者」であることが示されたとします。「あなたがたは彼を不法の人々(ローマ人)の手で十字架につけて殺した」のですが、それは「神の定めた計画と予知」によるものであり、「神は…よみがえらせた」と、神の力を強調します。

 ペテロはダビデの詩篇を引用します。「あなた(主なる神)は、私の魂を黄泉(よみ)に捨ておくことをせず、あなたの聖者(ダビデ)が朽ち果てるのを、お許しにならない」(詩16:10)とあるのを、大胆にも「ダビデはイエスについて言っている」のだと解釈します。「ダビデはここで、生き生きと鏡に映すようにして、キリストにおいて自分を見ている。」(カルヴァン) ダビデは死んでその墓は「わたしたちの間に残って」(その当時!)いるので、彼は「キリストの復活をあらかじめ知

って」そう語ったのだとします(預言者ダビデ!)。

 復活された主イエスは「神の右に上げられ」ました。ここでもダビデの詩篇が引用されます。「主(なる神)はわが主(メシヤ)に…私の右に座していなさい」(詩110:1)と言われます。ペテロは「あなたがた十字架につけたこのイエス」こそメシヤだとします(アメとムチ!)。

「死の苦しみ」は「陣痛」という言葉です。主は生みの苦しみを経て復活の喜びに入られました(私たちの希望!)。「復活の日」(讃154番)を祝う時、「天つ園にわれらを召して」くださる主を賛美するのです。










2021.4.11

 

 ■「これで商売をしなさい…」

          ルカ191127


 主イエスはエルサレムへ近づいて行かれます。主は「ミナの譬」(→マタイ25章「タラントの譬」)をされ、ご自分が天に帰ってから再びるまで、苦しくてもコツコツと働いて欲しい、と言われます

 人々は「神の国はたちまち現れる」と期待していました(弟子たちも!)。主は「ある身分の高い人が…遠い所へ旅立つことになった」と、ご自分をヘロデ大王の王子アケラオ(→マタイ2:22)のローマ行きとその帰還に例えられます。王子は「十人の僕を呼び十ミナ」を渡し「わたしが帰ってくるまで、これで…」と留守の間の仕事を命じます。

 王子が「王位を受けて帰って」来ると、僕たちに報告させます。一ミナ(約百万円)十ミナをもうけた者には「良い僕よ…十の町を支配させる」と大きな責任を与えます(五ミナの者も!)。しかし、一ミナを「ふくさに包んで、しまっておきました…おそろしかったのです」と、何もしなかった僕もいました(私たちはどちらか?)。

 王子は「悪い僕よ…わたしの金を銀行(初期の金融業!)に入れ…利子と一緒に引き出す」くらいの工夫をしなかったのか、と怒ります(リスクを恐れ過ぎる!)そして、何もしない者からは取り上げて「すでに十ミナを持っている」者に与えるのです。「おおよそ持っている人には、なお与えられる」という諺のとおりです(→8:18)。「それだから、私たちは主が来られて私たちと計算をされる前に、日々に自分で勘定することを学ぼうではないか。」(カルヴァン)。 

 伝道には、「商売をしなさい」と言われるように、具体的に工夫することが大切です(「教会成長」!)。「木工(たくみ)の業をば自ら努め」(讃367番)られた主は、働く者の友となってくださいます。








2021.4.18


■「主がお入り用なのです…」

         ルカ192840


 主イエスはいよいよエルサレムの町へ入って行かれます。その時、わざわざろばの子(子ろば)を選んでそれに乗られるのです。主は小さいものを顧みてくださる平和の王です(アケラオのようでなく!)。

 主は「先頭に立ち、エルサレムへ上って」行かれます(→9:51「決意して」)。「オリブという山に沿った…ベタニヤ」から「ふたりの弟子を…向こうの村(ベテパゲ)に」つかわし(→マルコ11章「報告者ペテロ」)、「まだだれも乗ったことのないろばの子」を連れてさせられます(→マタイ21:5→ゼカリヤ9:9「ろばの子に乗るメシヤ」)。あらかじめ主と打ち合わせてあったようで、「持ち主たち」は「主がお入り用なのです」と聞くとすぐに渡してくれます。

 弟子たちは「子ろばの上に自分たちの上着をかけ」て主をお乗せし、「上着を道に敷いて」歓迎します。「オリブ山の下り道」(西側の斜面から都が見える!)に来ると、「大ぜいの弟子たちは…主の御名によってきたる王に祝福あれ」と主を歓迎します(→マルコ11:9「ホサナ」→詩118:25)。彼らは「天には平和、いと高きところには栄光あれ」と、天から来られた平和の王を賛美します(私たちの礼拝も!)。「主は名も無き人々にご自身の尊厳を祝わされるのである。」(カルヴァン)

  パリサイ人たちは賛美がローマ当局を刺激するのを恐れます。「あなたの弟子たちをおしかり下さい」と訴えますが、主は「この人たちが黙れば、石が叫ぶ」とその賛美を支持されます(→ハバクク2:11)。

  「主の用なり」(文語)は弟子たち同士の合言葉のようです(主イエスのために!)。「今し来ます平和の主」をみんなでお迎えし、「喜べや、称えよや」(讃130番)と共に心を合わせて歌うのです。







2021.4.25


「神のおとずれの時を知らない

         ルカ192840


 主イエスがエルサレムに入って行かれたのが日曜日ですから、金曜日に十字架にかかられるまであまり時間がありません。そういう中で、主はご自分が苦しくても、何とか人々に神の恵みを伝えようとされます。

「都の近くに来て、それが見えたとき」、主は「(声を出して)泣いて言われ」ます(→「主の涙の教会」)。「もしおまえも…平和をもたらす道を知ってさえいたら…」と、残念がられます。「ここでは二つの感情都の破壊を悲しむ心と救いを拒否した恩知らずさを責める心)が入り混じっている。」(カルヴァン) 主の目には「敵(ローマ軍)が周囲に塁を築き…一つの石も他の石の上に残して置かない」有様が見えています(AD70年のエルサレム陥落!→マサダ要塞)。神のおとずれ」(主の3年半の活動!)は度々あったのですからそのチャンスを生かすべきだったのです(→Ⅱコリント6章「見よ、今は…救いの日」)。

 次に主は「宮清め」をされます(→マルコ11章)。「わが家は祈りの家であるべきだ」(イザヤ56:7)とあるのに、「盗賊の巣」(エレミヤ7:11)にしてしまった、と怒られます(教会のバザーは?)。

 短い時間の中でも「イエスは毎日宮で教えて」おられます。「祭司長、律法学者…民衆の主だった者たちはイエスを殺そうと思って」いますが、「民衆がみな熱心に(ぶら下がるように!)イエスに耳を傾けて」いるところに希望があります(説教を聞く人たち!)。パウロも「御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても」(Ⅱテモテ4章)と命じます。

「神のおとずれ」は、どんな時代でもいろいろな方法で語り続けられています(→コンゴの父と娘)。そのおとずれを知った者は「われに来よ」(讃517番)と招かれる主と共に人々に呼びかけるのです。