2022.12.4

今は見えるということ…」

ヨハネ91334


 生まれつきの盲人の目が開かれて見えるようになったという奇跡を巡って論争が起こります。元盲人はしっかりと事実を語ります。主イエスは、盲人の体の目だけでなく心の目まで開いてくださる神の御子です。

 「イエスが土をこねてその目を開かれたのは、安息日であった」ということが問題になります(→マルコ2章「麦摘み」→ルカ6章「右手の萎えた人」。主は、たとえ安息日でも困っている人を助けたいのです(四重の福音「癒し主キリスト」!)。ファリサイ派の中でも主に対して批判的な者と肯定的な者がいて「意見が分かれ」ますが、元盲人は「預言者です」と大胆に告白します。「この憐れな男が、キリストを預言者であると言い張るのは、もう一つの奇跡と言うべきである。」(カルヴァン)

 批判的な人々は「目が見えなかった人の両親を呼ぼ出して」尋問しますが、彼らは「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言って、「会堂(ユダヤ教のシナゴーグ)から追放」(→村八分「火事と葬式以外の交際を絶つ」)されるのを免れます(→3章「夜主を訪れるニコデモ」)。

 彼らは改めて元盲人を呼び出して「神の前で正直に答えなさい」(→口語訳「神に栄光を帰するがよい」)として誓約させ、「私たちは、あの者が罪人であることを知っている」と断言します。それでも彼は「私には分かりません」と言い、「ただ一つ知っているのは、目の見えなかった私が、今は見えるということです」と自分に起こった事実を隠しません(→新聖歌358番「神なく望みなく」→「恩知らず」ではない!)。

 「今は見えるということ」だけで十分です。「我をも救いし奇しき恵み(アメイジング・グレイス)讃Ⅱ167番)によって、”was blind but now I see”(かつては盲目だったが今は見える)と歌うのです。

 





2022.12.11


神のもとから来られた…」

ヨハネ92641


 ファリサイ派の人々は元盲人を尋問して、遂に追放してしまいますが、主イエスは彼に会って慰められます。生まれつきの盲人の目を開くことが出来たのは、主が神のもとから来られた神の御子だからです。

 二度目の尋問になると、この元盲人はだんだん大胆になります。「あなた方も(私と同様に!)あの方の弟子になりたいのですか」と言うと、彼らは「我々はモーセの弟子だ」と誇り、「あの者がどこから来たのかは知らない」と興味を示しません(日本の伝道の難しさ!)。しかし、元盲人は「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならないはずです」と、主の恩を忘れません(→説教命の言への招き」)。

 主は彼に会って「あなたは人の子(となった神の御子)を信じるか」と質問されますが、彼はまだ主の顔を知りません。それでも「その方を信じたいのです」と言うと、「あなたはもうその人を見ている」と主はご自分を明らかにされます。彼は喜んで「主よ、信じます」と言って「ひれ伏し」ます(私たちの礼拝!)。「彼は…賛美の思いで恍惚となり、我を忘れてキリストの前にひれ伏すのである。」(カルヴァン)

 主は「私がこの世に来たのは、裁くためである」と、いつもと違う言い方をされます(→3章「世を裁くためではなく」)。「見えない者は見えるようになり」(この盲人!)」ますが、「見える者は見えないようになる」(ファリサイ人たち!)ので、「見える」と言い張ることを止めて、信じる者になって欲しいのです(傲慢さを捨てて!)。

 神の御子は「神のもとから来られ」ました(→ミルトン『失楽園』→「父のふところを離れて」)。「神の御子は今宵しも」(讃111番)と歌いつつ、「急ぎ行きて拝まずや」と礼拝する者は幸いです。







2022.12.18

 

私が来たのは、羊が命を得るため…」

ヨハネ1010


 クリスマス礼拝の時、主イエスが語られた羊と羊飼いのたとえを取り上げます。ファリサイ派の人々は、自分たちは良い羊飼いだと考えていますが、主イエスこそ良い羊飼いとして来られた神の御子です。

 主は「羊の囲い」の話をされます(→石積みの囲いの絵)。夜の間、そこに入れられている羊の所へ「門を通らないで」やって来るのは「盗人…強盗である」と言われます(→キリスト教の三大異端)。羊たちは「その人の声を知らない」ので「決してついて行かない」でしょう(元盲人の場合!→だまされる人が多い現実)。

 朝になって、羊を連れ出して放牧するために、羊飼いたちがやって来ます。「門から入る者」は本物の羊飼いであり、「門番(天使?)は…門を開き」ます。「羊飼いは自分の羊の名を呼んで…羊はその声を知っているので、付いて行く」のです(牧師と信徒の関係!)。「牧者の名が人間に譲り渡される時、それはいわば下働きをする者を意味する。」(カルヴァン)  

 主は「よくよく言っておく」と念を押してから、「私は羊の門である」と言われます。「私を通って入る者は救われ、また出入りして牧草を見つける」ことが出来るようにしてくださる御方です(→ヨハネ14章「私は道…真理…命である」)。「盗人が来るのは…滅ぼしたりするため」という破壊的な結果になるでしょうが、主が天から来られるのは「羊が命を得るため、しかも豊かに(溢れるほど)得る」という建設的な目的のためです。この御方を信じる者は幸せになるのです(人生の転機!)。

 主は「羊飼いのいない羊のような」(マタイ9章)群衆を見て、放っておけなくなって、天から来られました(クリスマス!)。「諸人こぞりて迎えまつれ」(讃112番)と歌いつつ、喜んでこの救い主を迎えたいのです。 







2022.12.25


 私は良い羊飼いである…」

ヨハネ101121


 ここで主イエスがご自分を良い羊飼いであるとされるのを聞いて、ファリサイ派の人々は「気が変になっている」と衝撃を受けます。主は羊のために命まで捨てるような、特別な羊飼いになられた神の御子です。

 羊たちの生活に非常事態が起こります。「狼は羊を奪い…追い散らす」のですが、「「雇人は…羊を置き去りにして逃げ」ます(韓国の遊覧船事故の船長!)。しかし主は「私は良い羊飼いで…自分の羊を知っている…羊のために命を捨てる」と言われます。普通の良い羊飼い以上です(→ルカ15章「見失った羊を捜し歩く羊飼い」)。「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」というのは、主イエスが特別に良い羊飼いだからです。

 主はさらに「私にはこの囲い(→囲いの絵)に入っていない他の羊がいる」とユダヤ人以外の異邦人に言及されます。「その羊も私の声を聞き分け…こうして、一つの群れ、一人の羊飼いとなる」と将来の夢を語られます。それはペンテコステの時に実現します(→使徒1章「地の果てまで」)。

 主は「私は再び命を受けるために、捨てる」と不思議な言い方をされます。そして「それゆえ、父は私を愛してくださる」と言われます(特別に良い御子)。「御子が私たちのために人となり…和解のためのその働きを喜ばれたがゆえに…御父はいっそう御子を愛された。」(カルヴァン) 私は自分でそれ(命)を捨て…再び受ける」として、「これは、私が父から受けた戒め(命令)である」と言われます。永遠に生きて羊飼いの仕事を続けるために復活されます(→ヨハネ2章「神殿を建て直す」)。

 復活された主イエスは今「羊の大牧者」(ヘブライ13章)となって私たちを守ってくださいます。「まぶねの中に産声あげ」(讃121番)た御方が、命までも与えてくださる「良い羊飼い」であります。